4話 ハイウェイの澱 -3-


これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、誰も彼を縛っておくことはできなかったのである。(マルコ:5:4)

 きょとん、とした。
 なぜかというと、前の座席の二人が一斉にこちらを振り向いたからだ。
「あの、二人ともどうかした?」
 優羅はともかく、リースさんは運転中に振り向くのはまずいんじゃないかなあ、などと思う。
 わたしの呑気な調子の質問に対して、二人の表情はこちらがびっくりするくらいに真剣だった。
 流石にリースさんは直ぐに運転に集中すべく前を向いたが、視線はバックミラーに注がれていて、優羅はまだシートから顔をだしてこちらを見つめている。
 わたしもつられるように、後ろを振り向く。
 別段、変わった様子はなかった。普通に後続の車が見えるだけだ。
 すぐ後ろの車は家族連れっぽい人たちが乗ってるようだ。
 助手席にいる小さな子供が、窓にぺったりと張り付くようにして座っている。
「別になんにもなさそうだけど?」
 その微笑ましい様子を確認して、再び前に振り向く。
「違います先輩、その後ろです」
 優羅はわたしの視線に気がついたのかそう真剣な顔で指摘する。
「うしろ?」
 わたしは訝しく思いながらも、さらに後ろの車に目をこらす。
 こちらも別段、変わった様子があるとは思えない。
 普通のベージュ色の乗用車だった。
 そう、左ハンドルだから外車――え?
 ちょっと待て、あれ、もしかして……助手席にしか人が乗っていないんじゃ!?
 ぞくっ、と背すじに悪寒が走った。
「な、何あの車!? なんでまともに走ってるの!」
 車内では最後に事態に気づいたわたしは、思わず驚きの声を上げる。
「ああ、先輩。もしかして、あれが普通の車に見えてたりするんですか?」
「え?」
 優羅の意外そうな声に、またしても驚きの声を上げるわたし。
『それは仕方ありません。空音はこういうのには本当に鈍いのですから』
「空音、私たちにはおおよそまともな車には見えないわ。車は車なんだけど――ー」
「何か『べったり』と、黒いものが全体を覆ってるんです。車体の色もわからないくらいに。ここからでも少し寒気がします……」
 リースさんの言葉を継いだ優羅がぶるっ、と体を震わせる。
『断言はできませんが、怨霊……いえ、あそこまでいくと悪霊といって差し支えないでしょうね。しかし、昔ならいざ知らず今の日本であれだけの……?』
 鈴華が何かを思案するように呟く。
「……とりあえず、様子を見ましょう」
 リースさんは視線をバックミラーに注いだまま、車線変更。追い越し車線に入り、スピードを上げてその車を引き離す。
 ぐいぐいと距離が離れる、と思いきや。車線変更したわたしたちの車を追いかけるように、同じ車線にその車は入ってくる。
「くそ、予想通りマークされてるわね……」
 リースさんが思わず毒づく。
『先ほどから、こちらに向けて負の思念が飛んで来ています。どうやら、完全にわたしたちが狙いのようですね』
 鈴華が冷静に解説する。
「やれやれ、特に恨まれる覚えはないんだけどな」
「私も身に覚えはないです」
「わたしだって特にないけど」
 リースさんと優羅は一瞬、こちらを示し合わせたように見て、何か言いたげな様子だった。
 ……いや、まあ二人には今までわたしが体験したことを話したりしているので、当然の反応なのかもしれないけど。
『……今回に限って言えば、狙われる理由に空音だけ関係ありません。多分、狙いは私を含めた、空音以外の全員でしょう』
「え?」
 鈴華の言に思わずわたしは問い返す。
『端的に申し上げますと、飢えているんです』
「なるほど、わたしたちはさぞや美味しい餌に見えるでしょうね」
 リースさんが納得したように言う。
「……た、食べられちゃうんでしょうか」
 優羅がひきつった表情でそう漏らす。
「物理的にはどうかわからないけど、生気は吸われるでしょうね。生命の保証はしかねるわ」
 リースさんがあっけらかんした調子でそう言う。
『わたしは直接吸収されるでしょうね。まあ、おとなしく取り込まれるつもりは毛頭ありませんが』
 鈴華も淡々とそう述べる。……二人とも落ち着いてるけど、もしかして相当まずかったりするのではないのだろうか。いや、パニックになられるよりはいいんだけどさ。
 ちらり、と後ろに視線を向ける。
 件の車は、後ろをぴったりと張り付くように一定の間隔でいまだ追従している。
 リースさんもスピードは出して引き離そうとするが、喰らいついて来ているのだ。
 もとより、まわりには他の車もいるので、そうそう無茶な追い越しも出来ない。
 だが、無限に続くように見えた鬼ごっこにも、終わりが来た。
 いままでは常に一台は挟んでの対峙だったが、相手の車が上手く追い抜き、すぐ後ろにつけてきたのだ。ベージュ色の車体がすぐ後ろに迫る。
 近づいてきたので、座席がよく見えるようになる。
 助手席に座っている人は首をうなだれるようにして座っており、表情はもとより、意識があるのかどうかも怪しい。
 そして、接近してわかったが、実は運転席に人がいないわけではなかった。
 腰から上を横に倒していたのでいないように見えただけだった。
 もちろん、ハンドルには手がかかっていない。ひとりでにハンドルは動いているようだ。かなりシュールな光景だ。
 リースさんは軽く舌打ちして、すぐさま距離を引き離そうとする。
――が、向こうのほうの反応が早かったようだ。
 最初に感じたのは、ずぐん、という頭の中に響いた音だった。
 なんの音だろう、と思った瞬間、それは来た。そして突然、視界が黒一色に染まる。

『いた痛い叩いたイ痛痛痛痛。助け助テ足アシ脚が熱いアツイ熱い死にたくないた死にたくないシニタクナイ、今日は早く帰るってさっき電話なのになんでわたしはどうしてからだが動かない助けてだれかたすけていやだいやだやだいやだいやだだれか誰か誰か誰か誰か誰かだれかだれか寂しい淋しいさみしいつめたい冷たいつめたいつめたいひとりはいやママママオアカサン暗いくらいくらいよだれかいっしょにいてよあたたかくあたかかい体からだからだカラダからだからだカラだからだからだか体だから体からだからだだじゆうにうごく欲しいほしいホシイほしい欲しいからだからだからだからだ寄越せヨコセヨコセよこせよこせよこせ…………その体を寄越せ!』

 ひゅう、と喉のおくから何かが競りあがり、意識が薄れようととした瞬間、声は消えた。同時に音と光が戻った。現実が一気に広がる。
『空音! 空音! 聞こえますか?』
「……あ、鈴華
 切羽詰まったような鈴華の声にまだ虚ろな調子なのが自分でわかる返事をする。
『――申し訳ありません、遮断が遅れました』
「ううん、ありがと」
 あはは、きっつ……ぶり返した吐き気を押さえ込むように口元に手を当てる。
 久しぶりにああいうのに中てられたな、と思った。
 わたしの開いているチャンネルに思念を直接流し込まれた。
 まだぞわぞわ、とした感触が頭に残っている。
 大きく深呼吸。心を落ち着ける。ああ、実に清々しくない気分だ。やっぱりまだあの時のことを思い出す。まあ、おかげで気合は入った。
「先輩、大丈夫ですか……?」
 優羅が気遣わしげにこちらを伺う。
 前部座席にいたためか、今の影響は受けていないようだ。
 自分でも顔色は良くないのはわかっていたが、大丈夫、と笑顔で返す。
 バックミラーを確認すると、再び距離が開いていた。
鈴華、今何があったの?」
 わたしは後ろの車をバックミラー越しに見据えながら鈴華に問う。
『はい、至近まで接近した後ろの車から、悪霊の一部がこちらに向けて広がってきました。後部座席にいた私と空音が巻き込まれる形に』
「ごめん、私のミスだわ」
 リースさんが渋い表情でそう謝罪する。
「いえ、お気になさらずに。で、鈴華。どうだった?」
『はい、どうやら怨霊の集合体とも言うべき存在のようです。それが……どうもその普通の悪霊の類とは少し、その感触が違うというか……何か呪術的な臭いがしました』
「ふうん、人工的な、っていうこと?」
『はい、少なくともとても自然発生的なものとはとても思えません』
「少なくとも、さっきのトンネルのやつを吸収してるのは確かだと思う。声に聞き覚えのあるのが混じってたから」
『なるほど、だとすると次は私たちというわけですね』
「うわ、先輩のスイッチが入っちゃってます……」
 優羅が小さく呟いたのが聞こえる。
「スイッチ? 確かに何か雰囲気が違うけど……」
 リースさんもハンドルを切りながら小声で優羅に聞き返している。
「和真先輩がいうには、極限状態になるとモードが切り替わるらしいんですよ、そのう、攻撃的というかなんというか」
「なるほど、そういう体質なのね……複雑ね」
 いや、二人とも声を潜めても聞こえてるんだけど。ちなみにわたし本人はそう変化があるとは思っていない。思考が少しシャープになっているような気はするけど。
「でも、鈴華の話からするとやっぱり……そうね、好き嫌いを言ってる場合じゃないか」
 そう言ってリースさんは携帯電話スタンドの携帯電話を取り、アドレスを呼び出し始めた。目当てのアドレスを発見したのか、リースさんは耳に携帯を当てる。
「もしもし、こちら乙−ハ−21のリース=シューヒロイデン=大宮」
 そして相手の返事を待たずにハンズフリーにしてからスタンドに戻す。
『……認しました。どうされました?』
 若い女の声が車内に響く。
「現在、名神高速を走行中。何か悪霊らしきものに追尾をくらってるんだけど、もしかしてそっちでなにか心当たりがあるんじゃないかしら?」
 しばらく、沈黙が流れる。
『……現在位置を。すぐに対処に向かわせます』
 返ってきたのはそんな答えだった。
 リースさんの綺麗な眉がしかめられる。
「現在位置は小牧を過ぎた所よ。それより質問に答えたらどう? 中央道で事故ってたトラックの運送会社ってそっちがよく使ってる会社でしょう? 通った時に妙な感じもしたし、知らないとは言わせないわよ」
 カーナビを見て現在位置を確認した後、リースさんは電話の相手をそう問い詰める。どうやら電話先は、先ほど話題に出た対魔機関のようだ。
『……バビロニアの呪物を輸送中のトラックが事故に逢ったのは事実です。報告では呪物自体が破損しており、現在調査チームが現場に赴き、周辺を探索中です』
 今度は先ほどより短い沈黙の後、事務的な口調で答えがある。
「出自はどうでもいいわ。あれは何なのか教えてくれると嬉しいんだけど」
『担当者に代わります。とりあえず現状を維持してください』
 車内に保留音が流れる。
「もう、これだからお役所ってやつは……」
 リースさんが毒づく。
「あのう、もしかしてこれって、とばっちりっていいますか?」
 優羅がはた、と気づいたような調子でそう言った。
「そう言うと身も蓋もないから、不幸な事故とでも言っといたら?」
 わたしは状況に似合わない陽気な保留音を耳にしながら、とりあえずそうツッコミを入れた。

4話 ハイウェイの澱 -2-


この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。(マルコ:5:3)

「うーん、首都高で案外時間をとられたのが痛かったわね。ちょっとしか乗らないってのに」
 リースさんはハンドルをトントン、と指で叩きながら
「まあ、事故も重なってましたし、仕方ないですよ」
わたしは後部座席からそうハンドルを握るリースさんに相槌をうつ。
 現在は中央道を車は走行中だ。リースさんは車を運転すること自体を楽しむタイプらしく、いたく上機嫌だった。
 途中のI.C(インターチェンジ)等で休憩を挟みつつ、わたしたちは一路、神戸を目指している。
 ハンドルを握るリースさんの話によると、夕方、遅くとも夜には神戸に着くということだった。
 優羅はといえば、最初は遠慮していたのか、後部座席で借りてきた猫みたいにおとなしくしていたが、リースさんともすっかりと打ち解けたようで、車の話題なんかで盛り上がっていた。あんまり盛り上がっていたので、わたしが助手席を譲ったくらいである。
 しかし、優羅がそんな趣味の持ち主とは思わなかった。なんでも、叔父さんが国際A級ライセンスを持っててその影響とかなんとか言っていた。
 わたしは大人しく高速道路からの景色でも眺めて過ごすかな、などと思っていたが、 高速道路って殆ど壁に遮られていて外の景色とか見えない、という現実にぶち当たった。
 むろん、見えるところもあるが、褪せた山肌とかコンクリートとか実に味気ない景色ばかりだった。……よく考えたら当たり前のことなんだけど。
 と、いうわけで暇を潰すべく、I.Cで滅多に読まない西村京太郎なんかを買って読んでみているのだった。
 しかし、やっぱりわたしには時刻表トリックは頭が痛いよ十津川さん。
 平走する車や、横を軽々と追い抜いていく車などを見て、当初は、やっぱり高速は速いなーなどと思っていたりしたのだが、慣れとは怖いもので、もうあんまり気にならなくなってしまった。
 鈴華はというと、わたしの横の座席で実におとなしくしている。
 もともと付喪神という存在は長く待つという行為は得意なので別段驚くべきことではないんだけど。それでも時折前座席の小型液晶テレビはしっかり見ているようで、時折テレビに向かってツッコミを入れていた。
「もうすぐ中央道から名神に入るから。そうしたら後少しよ。渋滞してないことを祈りましょう」
 リースさんはテレビのチャンネルをいじりながら、そうわたしたちに告げる。
「きっと大丈夫ですよ。ここまでは実に順調じゃないですか」
 優羅が根拠なくそう断言する。まあ実際ここまで怖いくらい順調なのだ。
 わたしはてっきり、ガス欠だー、バッテリーが上がったー、JAFに連絡だー、みたいなことになるのかと思っていたが、そんなこともなく。
 かといって、I.Cでも誰にも因縁をつけられたり、ナンパされることもなかったのだ。
 ……被害妄想に過ぎると言うなかれ。わたしは逆に何も起こらないと落ち着かないような人生を送っているのだ。言ってて少し悲しいけど。
 いや、実際にはこちらを見てヒソヒソ言ってた若い男性三人組なんかはいたりしたのだが。
 わたしはともかく、リースさんと優羅は容姿は抜群にいいからなあ……美人系と小さくて可憐系とタイプも違う。
 わたし? わたしは普通か良くて普通よりは少しくらいは可愛いとも言えなくもないんじゃないかな、という実に微妙なレベルであることを自覚しているので、この二人の前では刺身のツマみたいなもんである。
 わかりやすく表現するなら『リースさん≧優羅>>>わたし』といった感じだ。
 優羅は「先輩はスタイルがいいじゃないですか」と言うが、優羅の胸は平坦に過ぎるのであんまり参考になる感想とも思えない。
 まあ、そんなひがみっぽいことはともかく、ここまでは至って順調だった。
『まあ、神戸で何かあるのかもしれませんしね』
 鈴華は悟ったようにそう呟く。
 わたしと過ごした時間が長いせいか、もう何も起こらないなどとはこれっぽっちも思っていないようである。ちなみにわたしも同意見だったりする。半ば覚悟はして来たのでそれはいいんだけど、なるべく穏やかなトラブルがいいな、と思うのは人情であろう。
『――時ごろ、名神高速恵那I.C付近でトラックが横転する事故が発生し、車両四台を巻き込む死者1名、重軽傷者四名を出す事故になりました』
「あら」
「あ」
「これ、今から通るとこなんじゃ」
「そう……みたいね」
『亡くなったのは運送会社勤務の塚原茂樹さん(47)――』
「うわーすごいですね、完全に道塞いじゃってますよこれ」
 画面にはヘリによる上空からの映像が映っている。確かに優羅の言うとおり、トラックは斜めに倒れて一車線を塞いでいた。
『――間は交通規制による渋滞が発生していますので、ご走行の皆様はご注意下さい』
「……あら? このトラック」
 リースさんは何かに気づいたようにヘリからの映像を食い入るように見つめるが、ちょうどそこでニュースは終わって画面が切り替わった。
「……どうかしたんですか?」
 画面を注視して首をひねっているリースさんにわたしは尋ねる。
「いや、知ってる運送会社の名前が今見えたような気がしたんだけど……気のせいかな」
「え、今の映像でそんなの見えました?」
 優羅が驚いたようにそう言う。確かに文字が読めるような解像度の映像ではなかったが、リースさんは……
「あはは、これでもまあ一応半分くらいは吸血鬼なんだから。見ようと思えばあれくらい見えるわ。夜ならきっとはっきり見えたと思うんだけどね」
 リースさんは苦笑しながらそう言う。
「あ、すっかり忘れてました」
 優羅はどうやら本当に忘れていたようで、きょとんとした様子だった。
 こういうところは優羅のすごいところだと思う。彼女にとってはあんまり吸血鬼だとか人間だとかはあんまり意味のないことなのだろう、と思う。
 リースさんは優羅の返答に微笑を浮かべた後、後部座席のわたしに意味ありげな視線を送って、アクセルを吹かした。
 なんだろう、類は友を呼ぶとでも言いたいのだろうか。別にいいけど。


「でもまあ助かったわ。高速道路って一人で長時間走ってると眠くって眠くって……」
 ふああ、とリースさんは口元を手で押さえながら可愛く欠伸をする。
「確かに高速道路って単調ですからね」
 優羅が横で深く頷いて同調している。
「そうなのよ。音楽やラジオとか掛けててもどうしても瞼が重く……ま、そんなときは奥の手を使ってるんだけどね」
「奥の手?」
 わたしがそう問うと、リースさんは片手で器用に助手席前のボックスを開けて、
スプレー式の吹出口がついたちいさなビンを取り出した。
 よくある口臭スプレーのようなやつだ。
 リースさんはそれを優羅の手に落とす。
「眠気覚ましのスプレーですか?」
「うん、私にとっては何より効くかな」
 中に入ってる液体は暗い黄金色をしている。
 優羅はくるくる、と容器を回していたが、埒があかないと思ったのか、手の甲に向けて一吹きした。
「あ、やらないほうがいいかも、って遅いか」
「え?」
 優羅は吹き付けた手の甲に鼻を近づけて顔をしかめた。
「……にんにく?」
「ね、やらないほうがよかったでしょ。そこのボックスにウエットティッシュが入ってるから」
 リースさんはそう優羅に教えて、手から容器を奪い取り自分の口の中に一吹きした。
「うー、やっぱりこれ効くわ……」
 そして顔を思いっきりしかめる。そりゃまあ半分くらい吸血鬼なんだからそれは効くだろうと思うけど……というか大丈夫なんだろうか。
 心配そうなわたしの顔をバックミラー越しに見て取ったのか、リースさんは苦笑して、
「ああ、大丈夫ものすっごく苦いだけだから」
と言った。
「……はあ」
 と曖昧に頷くわたしに、リースさんはそうね、と少し考え、
「例えるなら生のゴーヤを齧った感じかな、近いのは」
と言った。 
 それはきつそうだ。というか生のゴーヤを食べたことがあるんですか。
「うう、私ゴーヤは苦手です……」
 ウェットティッシュで手を拭き終わった優羅がそうコメントする。
「ま、これはかなり濃縮してあるし、普通の料理だとちょろっと苦くてそれはそれでおいしいよ」
 ……吸血鬼もいろいろ大変なんだなあと思った。わたしには苦い餃子はあんまり美味しそうには思えないし。
「あ、あれって、さっき言ってた事故の現場じゃないですか?」
 見ると、反対車線は渋滞しているようで、車の流れが悪くなっている。
 先を辿って視線を移すと、確かに横転したトラックとなにやら事態の収拾に当たっている何人かの―――って、あっという間に通り過ぎた。
 まあスピードを弛めるわけにもいかないので当たり前なんだけど。
「派手にいってましたねー」
「……やっぱり」
 感心したように言う優羅と対称的に考え込むようにそう呟くリースさん。
 もしかして知り合いかなにかだったのだろうか。
『空音』
と、考えていると鈴華から声がかかった。
「ん? なに?」
『今、何か聞こえませんでしたか?』
「ううん、特に何にも。どうかした?」
 わたしは珍しく真剣な口調で問い掛ける鈴華にわたしはそう聞き返す。
『いえ……気のせいでしょう』
「……そういえばこの辺に確か事故多発で有名なトンネルがあったわね」
鈴華の言をうけてかどうかはわからないが、リースさんがそんなことを言う。
「うわ、怪談ですか」
 優羅がわざとらしく驚いた調子でそう反応する。
「まあ、お決まりの怪談だけどね。何でも窓の外を高速で飛ぶ女性の生首だとか、昔、高速バスが事故ってどうとか」
 バスの事故、という単語に少しだけ胸がざわつく。
「うーん、定番っぽいですね。実に胡散臭い怪談っぽいです」
 優羅が感心したように言う。
 まあ怪談のほとんどが出鱈目か勘違いなのでその感想は間違って……
「あはは、まあ、実際に出るんだけどね」
 リースさんはさらりとそんなことを言った。
「……はい?」
「いや、だから本当に出るの。もちろん噂そのまんまとはいかないけど、視える人は視えるんじゃない?」
「それ、放置しておいていいんですか……?」
 わたしは素朴な疑問を述べる。
「ん、まあ頻度もそんな出るわけでもなし、実際にそれで事故が増えてるというわけでもないみたいだから、放置みたい。一応、私からも機関に報告だけはしといたんだけどね」
「機関?」
 このへんの事情を知らない優羅が当然の疑問を差し挟む。
「ん、ああそっか。いわゆるわたしたちみたいなモノの管理をしている国の対魔機関。前身は陰陽寮……っていったらわかる?」
 陰陽寮平安時代に天文・暦数・報時・卜筮などを担当したお役所のことだ。まあ最近は安倍晴明ブームで有名になっちゃった感があるけど。
「あ、はい。なんとなく……って国の、なんですか」
「うん、そうみたい。税金の使い道って本当に不透明なんだなって、わたしはこの話を和真から聞いたときに思ったわ」
「先輩、税金とかそういうことではなくてですね」
 優羅はわたしに律儀にツッコミを入れてくる。
「まあ、下手に霊的スポット払うとたいへんなことになるらしいから機関の方針も妥当なところではあるんだけどね。わたしは龍脈とか霊脈とかさっぱりだけど」
「はあ、やっぱりいろいろ難しいんですねえ」
 優羅は感心したように言う。
「っと、もうすぐそのトンネルよ」
 速度落とせ、の表示がトンネルが近いことを知らせる。
 そのままなんとなく全員が沈黙を保ったまま、トンネルに入る。
 オレンジ色の光が車内を薄明かるく満たす。
 トンネルの内部と言うのは一種独特の雰囲気があって、違うもう一つの世界のようだった。
『……が……よ』『……のに』『きょうは……』『……お母』
 あ、本物だわこれ。そんなに強く聞こえないんでたいしたことはないけど。
「あ、ちょっとゾクってしましたねやっぱり」
 優羅は暖房が効いた車内で身を少し震わせる。
「あら、やっぱり感受性強いのね。まあ、わたしもそのくらいなんだけど」
「わたしもちょっと聞こえましたから、やっぱり本物ですね」
 トンネルを抜けてから少ししてから口々にわたしたちは言い合う。
『ちょっと待って下さい、空音? 聞こえたんですか?』
「え? うん、かすかにだけど」
 焦ったようにそう聞いてくる鈴華にわたしはそう答える。
 別段能力をOFFにしていたわけでもないから不思議でもなんでもない――ってまさか。
『私、トンネルに入ってすぐに遮断していましたよ……?』
「だとしたらちょっとまずい、かも。まあでも、ちゃんと聞こえたわけではないし……そこまでまずいわけでもないか」
『それはそうですが……』
 鈴華は霊的なものから、わたしが『絡まれる』のを防いでくれている。
 この付喪神さんは、霊とか、呪いとか、そっち方面の形のない脅威に対してはかなりの強さを発揮してくれる。並みの悪霊など鈴華は寄せ付けもしない。もともと鏡として祭典や儀式用に使われていたらしいので、これくらいは朝飯前だそうだけど。
「あら、わたしも感知とかは大の苦手だし、最近強くなったのかしら……この中では一番鋭そうだし、後で報告しておこうかしら」
 リースさんはそう顎にてを当てながら、目をしばたたかせる。
『そのほうがいいでしょう、さっき感じた不穏な気配もこれなのかもしれませんし』
「ああ、さっき言ってたのってそれ? 相変わらず鈴華は心配性だよね」
『どなたのせいかわかりませんが、ここ十数年でめっきりそういう性格になってしまいました』
 うわ、手痛い反撃がきた。反論ができないわたしは黙ることにする。
 それからしばらくは、トンネルのせいもあってかしばらく静かな雰囲気になった。
「何か音楽でも聞く? MDとCDがそこに入ってるけど」
 リースさんは全部と後部を繋ぐ部分を指差してそう言った。
「それでは失礼して……」
 などと言って優羅は意気揚々とボックスを開けてMDのラベルを読み始める。
 わたしも興味があったので一緒になって覗き込む。
「ええっと、ビートルズに、ディープパープルに……エンヤにエリック・クラプトンNightwishって私知らないですね……CHIE AYADO? あ、綾戸智絵さんですね。私も好きです」
「ごめんね、節操のないラインナップで。まあパパの趣味も入ってるんだけど」
 リースさんは苦笑してそう言う。
「いえ、なかなかよろしいラインナップで……Masasi sada……流石にさだまさしは日本語のほうがいいんじゃ」
「パパ、『親父の一番長い日』とか好きなのよね……困ったことに」
 それは娘としては困るだろうな、エルクさんがその曲を好きなのはイメージにあうんだか合わないんだか、とわたしはエルクさんの容姿を思い出しながらそう思った。しかしスポーツカーから流れるさだまさし。シュールだ。
『私は島津ゆたかを希望します』
 また鈴華も実に微妙なチョイスをする。というかなんでそんなMDまであるんだろう。
 そんな風にワイワイとやっていて、じゃあここは坂本九で、と妥協案に落ち着いた。これを妥協案として容認できるあたり、わたしも優羅も、あきらかに昨今の女子高生とはかけ離れているとは思うけど。
 その後、全員で『上を向いて歩こう』を合唱するというある種、異様な空間が車内に展開された。いや、楽しかったんだけど。
 異変が起きたのはその直後だった。
 ここから、急転直下、地獄で悪霊なカーチェイスが幕を開けることになる――。

4話 ハイウェイの澱 -1-


 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやってきた。(マルコ:5:2)


 春の足音が聞こえてくる3月――とはいうものの、外気はまだまだ肌寒い。
 もっとも高速道路を走る車の中にいるわたしには、外の気温がどうであろうと関係ないはずなのだ。
 
―――通常なら。

「右から来るわよ、気をつけて!」
 その言葉に呼応するように車体が急激に横にずれる。
 つられるように後部座席のわたしは、鈴華の入った箱をしっかり抱えたまま、その動きになんとか耐える。
 四つあるドアのうち助手席のドアがきれいになくなっており、冬の冷気がそこからゴウゴウと流れ込んできている。
ぶるる、と寒さに体を震わせながらもわたしは後ろを振り向く。
 なんとか距離はまた離れたみたいだな、と思いつつも、なんでこんなことになってるのかな、という気持ちが半分、やっぱりこうなるのか、という気持ちが半分という実に複雑な心境であった。
 あ、あいさつがまだだった。
 こんばんわ坂下空音――うわっ、いまガクンってなんか踏んだような。
 ええっと、もうみなさんだいたいお分かりいただいてるとは思いますが、現在、わたしたちは高速道路でカーチェイスの真っ最中です。



 ことのはじまりは、例の――春休みの旅行の件(※異人館で逢いましょう)を優羅が催促してきたことだった。
「……ほんとに行くの?」
 わたしが読んでいた新聞から顔を上げてそう胡乱げに問うと、優羅はじゃーん、などと口でわざわざ効果音を言って、どうだとばかりに神戸の観光パンフレットやガイドブックをテーブルの上に広げてみせた。
「この通り計画は万全です!」
 力強く断言する優羅。それは計画じゃなくって希望は万全と言うんじゃ、と思ったけど口には出さなかった。
 この目の前にいる小柄で可愛らしい(わたしの主観)一年下の後輩は、秋の事件で知り合って以来友達――というよりは一方的に懐かれたというのが正しいのかもしれないけど――になった、少し天然の入った(失礼)元気な娘だ。
「正直なところ、この前の雪山でろくな体験をしなかったからあんまり旅行とかは気が進まないんだけど」
 相変わらず元気だなあと思いつつ、遠まわしに断るようなわたしの言に、
「先輩、結局スキーとかは楽しそうにしてたじゃないですか」
 と、口をへの字に曲げて抗議する優羅。
「いや、まあそれはそうなんだけど……」
 それはそれ、というやつである。確かに久しぶりにスキーをやって楽しかったけど……いや、そんなわたしが楽しんだ話は今はどうでもよろしい。
「でも、リースさんとかの都合もあると思うし、いきなり押しかけるのはどうかと思うけど……」
「だから電話して聞いて下さい、今すぐに」
と、渋るわたしに対して優羅はあくまで強硬な態度で迫る。
 ……そんなに行きたいのだろうか神戸に。
「そして私に吸血鬼さんを紹介して下さい!」
 そっちか。
「優羅……いまさらだと思うけど、その恐怖感とか、嫌悪感とか……」
 ああ駄目だ、目が輝いてるよこの娘。
「さあ先輩、テレフォンしてください」
 ビシッ、とリビングの電話を指差す優羅。
 わたしは溜息を一つついて、リビングから出て行こうとする。
「あー、先輩逃げるのは卑怯ですよー」
「携帯にしか番号入ってないの」
 一応、番号は覚えていたりもするが、優羅の抗議にわたしは静かにそう答える。
「……それは失礼しました」
 その言葉を背に受けつつ、わたしは肩をすくめてリビングを出て行った。

 日は流れて5日後―――わたしは旅行用のディパック一つと、大きめの手提げ鞄を持って自宅マンションの前に佇んでいた。
 時刻は朝の九時。
 入り口のオートロックの前で一人寂しく立っていると、向こうからガー、という音と共に小さめのスーツケースをこちらに転がして来る優羅の姿が目に入った。
「おはようございます……先輩、荷物はそれだけなんですか?」
「うん、そうだけど?」
 優羅の疑問に軽い調子でそう答える。
「……少ないですよね」
「まあ、必要なものがあれば向こうで買えばいいし。これでも鈴華がいるぶん荷物は多いくらいなんだけど」
 わたしは鈴華が入った手提げ鞄を掲げてみせる。ちなみに、女の子にしては荷物が少ないことは自覚している。いいじゃないか、身軽なほうが好きなんだから。
「あれ? でも鈴華さんの姿は見えないですけど」
 優羅はわたしの周りをきょろきょろと見回す。
『おはようございます優羅様、やはり結界内でないと優羅様には見えないようですね……残念です』
 銅鏡の付喪神であるところの鈴華は、マンション内に結界を張っている。この効果の一つに存在の安定と拡大があるらしく、その影響もあってか多少霊感のある優羅にはマンション内では姿も声も見えるらしい。
 ちなみに結界内部なら、鈴華はどこでも自由に本体の銅鏡から離れて行動できるが、結界外だと本体から数メートルも離れることは出来ない。
 まあ、わたしは結界の外だろうが中だろうが、相変わらず姿は見えず声だけが聞こえるのでいつもとそんなに変わらないんだけど。
「うーん、やっぱり結界の外だと優羅には見えないみたい。まあ、いつもの通りちゃんといるからご心配なく」
「そうですか……あれ? 和真先輩はまだですか?」
残念そうにそう言った後、気が付いたように再びあたりを見回す。
「ああ、和真なら来ないよ?」
「な、なんでですかっ! 旅行の開放感が二人を深く結びつけるプロジェクトが台無しじゃないですか!」
「……ええっと優羅って和真が好きだったの?」
 違うだろうなー、とは思ったが一応ボケてみる。
「なにを阿呆なこと言ってるんですか? 先輩たちの話に決まってます!」
 相変わらずまあその、懲りないというか……いやもう別にどうでもよくなってる自分が少し悲しい。
「いや、昨日の夜電話があって用事で行けなくなったって」
「何でそこで食い下がらないんですか!」
 何でって言われてもなあ……あいつが一度OKしたのを断るのは相当なことだから、引き止めても無駄だというだけの話なのだけど。
「まあ、行けたらあとで行くって言ってたから、神戸にふらりと一人で現われるんじゃないの?」
 わたしは未来予想図を口にして優羅をなだめる。なぜわたしがなだめないといけないのかは甚だ疑問ではあったけど。
「で、優羅。許可はもらってきたんでしょうね」
 一人暮らしで身軽なわたしと違い、優羅はちゃんと両親がいる。それほど厳しくない家だとは聞いていたが、そういうのは重要だとわたしは思う。
 ちなみに、一度遊びに行った優羅の家はこの不景気な時分に不釣合いな豪邸で、母親はおっとりとした優しげな人だった。
「はい、ばっちりです!」
 優羅は今時堂々と臆面もなく両手でピースサインかましている。似合っているから別にいいんだけど。まあ許可さえもらっていれば別に問題はない。二泊の予定だしそうたいしたこともないだろう……何事もないのなら。
 ここしばらくわたしがたいしたトラブルに巻き込まれていないのが逆に不安要素なのだが――。
 と、そんな風にして優羅と二人、マンション入り口の前に佇んでいると、敷地内に一台の赤いスポーツカーが滑るように入ってくるのが目に入った。わたしは車に関しては全く詳しくないが、流線型のフォルムが格好いい。
 と、その車はパッパ―、とクラクションを軽くわたしたちに向けて鳴らし、滑るように目の前に止まった。
「スポーツカーで4ドアーは珍しいですね」
 優羅がそんなようなことをぽつりと呟く。
 エンジンが停止してドアが開く。降りてきたのは絵に描いたような、金髪碧眼の美女だ。
「ハーイ、空音、数ヶ月ぶりだけど元気そうね!」
 美女はそう明るい調子でわたしに話し掛けてくる。
 口から出てくるのは流暢な日本語で、まったくもって外人が喋っているようには聞こえない。いきなりこうして抱きしめられているところなどは、まったくもってボディランゲージの激しい外人らしいと思うけれど。
しばらく再会の感動をあなたに! といった風情でわたしを抱きしめていた金髪碧眼の美女――リース・シューヒロイデン・大宮さんは、視線を私の横で見惚れるようにしてリースさんを見上げていた優羅に移す。
「そしてこっちが空音が言ってた、一つ下の後輩ね。聞いてたとおり小さくて可愛い!」
 ぎゅー、と勢いにまかせて今度は優羅を抱きしめるリースさん。
 優羅はわたしより小さいので、長身のリースさんに抱きしめられるとほとんど体が見えなくなっている。
「すみません、わざわざ車で神戸まで連れていってもらうことになって」
 目を白黒させている優羅を横目に、ハグから解放されたわたしはリースさんにそう話しかける。
「いいのよ、電話で言った通り、友也のところに寄った帰りなんだし」
 リースさんはそう笑顔で言う。ちなみに友也さんというのはリースさんの彼氏さんだ。現在遠距離恋愛の真っ最中らしい。相変わらず仲は良好のようだな、とわたしは一人思う。
「はじめまして、三ノ宮優羅です。ええっと、リースさん道中よろしくお願いします」
 優羅は若干緊張しているのか多少呂律が怪しい。
「こちらこそ、こんな可愛い娘と知り合いになれてうれしいわ」
 リースさんはにこやかに微笑む。
「それで。ええっとあの、リースさんはその……吸血鬼さんなんですよね?」
 優羅はおそるおそる、といった感じでそうリースさんに訊ねる。
「ええ、そうよ? まあダブル――ああ、わかりにくいか、ハーフなんだけどね。ま、吸血鬼としての性質はあんまり受け継いでないからハーフでいいんだけど」
 おかげで太陽もそれなりに平気だしね、と付け加えてリースさんは笑う。
 そう、みなさんお忘れかもしれないので解説しておくと、この目の前の美女は何気に生物学的には普通の人間ではなかったりする。
 父に由緒正しい吸血鬼を持つ、いわゆるバンパイア・ハーフなのだ。本人の言うように吸血鬼としての性質は色濃くは受け継いでいないらしく、一部の能力を除き、そう普通の人間と変わらないと言うものの、血は摂取する必要があるところを見ると、吸血鬼を名乗るのには十分だろう。
 性格のほうはただの陽気なお姉さんだけど。
「私、吸血鬼さんというのは昼間はサングラスと帽子で完全装備と思ってました……」
 優羅の言う通り、リースさんはサングラスも帽子も装備していないし、特に日光に対してなんらかの遮蔽を行っているようには見えない。
「これでもUV対策はしてるのよ? サングラスは一応持ってるけど、友也が言うには私あんまり似合わないらしいのよね」
 そう言ってリースさんは肩をすくめる。
 サングラスの似合わない吸血鬼というのはどうなんだ、とわたしは密かに思ったが、まあ、そこは個性というやつだろう。
「そしてあなたが鈴華ね、パパが言ってた通り綺麗ね。和服もよく似合ってるわ! わたし付喪神と会うのは実は初めてなの、よろしくね」
『こちらこそよろしくお願いしたします、リース様』
 あれ、鈴華の声が若干固い気がする。そう感じたのは付き合いの長いわたしだけだろうけど。
 ははあ、エルクさん――リースさんの父親の件でまだ若干吹っ切れないぶぶんがあるとみた。まあ道中で改善されるだろう、とわたしは勝手な推測をする。
「連絡どおりあなたのパートナーの和真は来ないのね……残念だわ。まあ、仕方ないし女同士で気楽にやりましょう。じゃあ、荷物をトランクに積んで、さっそく出発しましょうか。さあ、楽しい旅行にしましょうね!」

こうして春休みの神戸旅行は幕を開ける。

――ハイウェイに何が待ち受けているかは、まだ誰も知るよしはなかった。

3話 古本は紙魚の骨を食べるか -7-

戦慄と恐怖で思考が乱れそうになる。
 いや、まだ手はある。
 わたしはあきらめない、とあの日心に決めたのだから。
「三ノ宮さん本が置いてあったテーブルはどこ!」
「え、あはいこっちです」
『レナートさん!』
 わたしは能力を全開にして最大強度で放つ。
『……お嬢さんか!まったくもってトラブルに好まれるな君は!』
 ユークリッド幾何学原論の付喪神レナートさんからの返事がある。よし!まだ!
『そんなことはいいですから――本はどこかわかります?』
『―――すまないお嬢さん……目くらましをかけられた……だいたいその窓際700〜900の本棚のなかにいるということしかわからんのだ!』
『広すぎる……』
 くそっ、ここまで来て――
「先輩、テーブルはここですけど――」
 後ろをちらりちらりと見ながら三ノ宮さんは不安げに言う。
 わたしはひとつ深呼吸して息を整える。
「いい、件の本はそこの窓際の棚700〜900の中のどれかよ、あなたしか実物見たことないからなんとしてでも探し出して!わたしはあいつをなんとかしてみるから」
 さあ、最後の勝負と行きましょうか……相手は手負い、やってやれないことはない。
「先輩……その、そこらへんの棚にあるのは間違いないんですか?」
「そう、理由は今は説明している暇ないけど」
「もしかして楽勝でまだあの鬼に勝てたり……」
「するんならこんなに焦ってるわけないでしょ!いいから早く――」
 三ノ宮さんの顔を見て、わたしは喋るのを止める。なんでそんな――
「……でもやっぱり先輩はすごいです。先輩のおかげで決定的な場面で使えます。あとは、私にまかせてください」
笑顔で。

「私は、ただ刹那、運命の頂きに―――立つ」

 瞬間、三ノ宮さんの雰囲気が目に見えて一変した。
 目が、離せなくなる。なんで、こんなに――どこまでも儚げで、優美に―ー?
 とても一瞬前までと同じ人間とは思えない。あまりにも、あまりにも神秘的、まるで彼女が本を読んでいる姿のよう――『窓際の君』と呼ぶにふさわしい美しさだった。
「六十」
 そう呟き、彼女は迷いなく本の森に歩みを入れる。
「五十」
 ある棚の前で止まると、無造作にそこから一冊の古そうな本を取り出す。
「ありました。ええっと――ー」
 嘘……。そんな簡単に―ー
 しかし現実に、こちらに本を読みながら彼女は歩いて来る。
 !しまっ――いつのまにか距離をつめた鬼がたちふさがるわたしを無視して、机を飛び越え、彼女に踊りかかる。気づく。恐ろしいことに鬼の傷が再生しつつあった。片腕こそ生えていないが徐々に削れた半身が再生している。
 こんなのどうしろって――
「四十」
 三ノ宮さんはその様子が目に入っていないのか、全く意に介さず、よけるそぶりも見せない。
 鬼の攻撃は運良く三ノ宮さんにかすりもせず、そのまま通り過ぎる。
 しかし振り返って床を蹴り、再度の跳躍、しようとしたところで、何もないところで足をもつれさせて無様に転んだ。
 そのまま近くにあった机に頭から突っ込んで派手な音を立てる。

 ―――なにかありえないことが起きている。

「三十――ああもう、ちょっと静かにしていて下さい」
 三ノ宮さんは本を読みながら、肘にはさんでいたボウガンを片手で構えると、を何気なく鬼の方にむけ、本に視線をやったまま、狙いを定めもせずにトリガーを引く。
 ありえないことにその矢は防御しようとかざした鬼の手の隙間をくぐりぬけて、見事に鬼の脳天に突き刺さった。
 鬼が無言で倒れ伏す。

 ―――なにか物凄いことが起こっている。

「ありました、ええっと『ひふみよいむなやここのたり・還りませ・還りませ・紙の彼方へ・たしかにあなたをつかまえた・布留部布留部・無為なる彼方・無為なる彼方・由良由良都布留部』」
 彼女が韻を踏んで見事に唱え終わると、本が中に浮き、ゴウ、とどこからか風の吹く音がした。ページが静かに、しかし大きく開く。
 そして開いたページから溢れ出した、黒い触手が鬼にむかって数百本、いや数千本――圧倒的な質感と力強さをもって鬼を絡め取る。
 頭の矢を抜いて立ち上がろうとしていた鬼は、抵抗しようとするものの、何千本の蠢く触手に絡め取られ、体が全て埋没していく。
 そして、フィルムの逆回しのごとく黒い触手は本に一つ残らず戻っていき、バタン、と本は音を立てて閉じた。ゴウゴウと吹いていた風も同時に停止する。
「十―――十秒余りましたね」
 空中から落ちてくるほんを両手で受け取り、三ノ宮さんは呆然とその様子を見つめるわたしにむかって、にっこりと微笑んだ。

                         ◆

 わたしは屋上のドアを閉める。
 普段は屋上には鍵がかかっているのがこの学校の常だが、今日は例外だ。
「で、結局どういうふうになったわけ?」
 その例外の原因の男――緑丘和真にポッキーの箱を放り投げつつ、話しかける。
 なんでコイツは屋上の鍵なんて持ってるんだろう……いや、みなまで言うまい。
「ああ、どこかの変質者が学内に押し入って床などを破壊して帰ったことになった。幸い死傷者はなし、だしな」
 そう、死傷者はなし、である。よかったよかった。
 ついでに封を切ったポッキーを一袋要求する。
 あのあと、鬼に喰べられた人が続々とこちらに戻って来てどうしたもんかと悩んだのは内緒だ。結局面倒くさいことになりそうだったので、誰も外傷もなかったことだし、目を覚まされる前に帰った。
 三ノ宮さんは渋っていたが、わたしがどう説明する気?という質問をするとやっぱり私も帰りますと言った。正直が一番である。
 もちろん、学校を出てすぐ、和真に連絡は取ったのだが。
「校舎に残っていた人間はお前と三ノ宮優羅を除いて生徒教師含めて10名。時間も時間だったしこんなもんだろう。いずれも放課後以降の記憶自体が曖昧だ。面倒くさい事態にならずにすんで何よりだな。まあ、記憶を保持していたとしても、信用はされんだろうが……というかな。お前が壊した床とか壁の傷とかのほうが誤魔化すの大変だったんだが」
 愚痴る和真。むっとしたわたしはすかさず言い返す。
「学校にあんなもの置いてるあんたが悪い……そうよ、何よあのロッカーの中身!ギャグとしか思えないものまで入ってたじゃない!あんたのチョイスは訳がわからないわ」
「お前な……まさか本当にC4まで使うとは思うか!あれは本来建造物破壊用で、化物相手に使うもんじゃないぞ!」
「ほーう!和真さんはわたしにテロリストになれとおっしゃいますか」
 わたしはポッキ―をサーベルのようにして和真にむけて突き出す。
「そーいうことじゃない・・・だいたいだな、もっとまともな戦い方があるだろ。ナイフで切りあう?よくもまあ5体満足で帰ってこられたもんだと呆れたぞ」
「なんとかなりそうだと思ったんだからしょうがないじゃない!」
 ぎゃーぎゃーと言い合うわたしたち。双方ともにただの不毛な言い争いとわかっているので、これは会話のキャッチボールにすぎず、本当に怒っているわけでは決してない。……多分。
「でだな、お前のクラスの白倉未亜の件だが―ー」
「ちょいまち、なんであんたがその話知ってるの?」
 わたしは素朴な疑問を差し挟む。
「この件に関係有るからだ。いいか、今回の事態の原因3人組みのうちの一人、沢渡恵が、白倉未亜をストーカーしているようだ」
「はへ?」
 思考が止まる。ああ、ポッキーを根元から折っちゃった。
「お、女の子だったの?」
「沢渡恵と白倉未亜は同じ中学で同じ部活だったらしいな。聞く所によると怪しいくらいべったりだったそうだ。高校になってからはクラスが違うこともあって疎遠になっていたそうだが」
「あーわたし完全に男とばっかり……」
「まあ聞く所によると、憑き物がおちたみたいな様子だから大丈夫なんじゃないかね。一応俺のほうでもチェックはしておくが」
 和真は黙々とポッキ―を一袋食べ終わっている。もうちょっと味わえと思うがまあ人それぞれだろう。
「あーそう……うんまあ世の中信じられないことが多いってことがよくわかった」
 教訓、思い込みは危険である。
「本のほうはどうなったの?なんか例の対魔機関にコネがあるとか言ってなかった?」
「それなんだがな・・・・・・なんかほとんど力もなくなってることもあってか、歴史的価値も鑑みて処分ではなく、封印だそうだ。まあ妥当な線だろう」
「よかった・・・・・・やっぱり燃やされちゃうのは忍びないよね。話し掛けても返事なかったから死んだのかと思ってたけど・・・・・」
「お前な・・・・・・よくもまあ殺されかけたのに相手の心配なんかできるな」
 うーん、わたしにとって付喪神の精神と人の精神はほぼ等価値なせいもあるのだろう。そうでないと鈴華に悪い。
 昨日夜遅くに家に帰ったとき、怒られずに泣かれたのには参った・・・・・・最後は連絡の一つもしなさい、この大馬鹿娘といつもの調子でなじられたので安心したけど。
「でさ、あんた前に学校の能力者の有無は全員チェックしたとか言ってなかった?チェック漏れ?」
 気分を切り替えるために、わたしは唐突に話題を転換する。
「………すまん、その通りだ。話を聞く限り、彼女の能力はかなりon,offがはっきりとしたもんだろう。常態がoffでしかもそれはまったく彼女の場合一般人と変わりないということを意味する。……俺のセンサーにはひっかからなくても不思議はない」
「ふーん……彼女の能力の正体ってなんだと思う?超幸運?」
「本人に聞け……といいたいところだが……坂下、多分お前の認識よりかなりアレはやばいそ。下手をしたら最強かもしれん。なるべく使わせるな」
「へ?でも1分間だけっぽいよ?それに一週間に一回だけって言ってたし、副作用とかももほとんどないって」
 和真は真剣な顔でこれは俺の推測だが、と前置きして
「彼女の能力はだな、因果律を歪める能力だ。いいか、世界が全ての力をもって彼女に有利になるように働きかけるんだ。これはとんでもないぞ?多分、1分間なのはそのくらい短くないと世界のほうが壊れてしまうからだろう……こんな能力が副作用がないわけがない。……まちがいなく隠してるぞ」
「そう、やっぱりいい娘なんだ……友達にはなれないな」
 わたしは悲しげにそう呟く。
 和真は首を傾け、わたしをじっと眺めると、
「………まあそう言うと思ったので呼んでおいた」
 と言った。
「……へ?」
 バタン、と屋上のドアが閉まる音。
「わー本当に開いてる……あ、こんにちわ先輩、お元気そうでなによりです!」
「和真……」
「能力者だしちょうどよかろう……本心ではそう思ってるんだろ?ちなみにお前の特性は説明しておいた」
 わたしは和真を睨みつける。意に介さないといった風情だ。
「……おせっかい焼き」
 そう漏らしたわたしに、
「知らなかったのか?フィクサーはそう言う職業だ」
 和真はニヒルに笑ってそう答えた。
 先輩いっしょにお昼たべませんかーという声を聞きつつ、わたしはその憎たらしい同級生の手から、最後のポッキ―を奪った。

3話 古本は紙魚の骨を食べるか -6-

「んじゃ、作戦会議と行きましょうか」
「さくせんかいぎ……ですか?」
 無事、文芸部室に避難できたわたしたちは畳(何故か知らないが文芸部室は畳だ)に向かい合って座っている。
 三ノ宮さんはきちんと正座というものがができていて、背すじもちゃんと伸びている。わたしは正座はそんなに得意でないので、きちんと正座できる人は羨ましい。
「先の第ニ次接近遭遇で判明したことがあります」
「だいにじせっきんそうぐう…」
 なにか言いたげな三ノ宮さんに気づかない振りをして、わたしは先を続ける。
「この状況を打開するには、やはり図書館に行くほかありません」
 わたしは教師口調で断言する。
「……?それがさっきので確定したんですか?」
 わたしは鷹揚にうなずく。
「あの鬼――まあ見た目、鬼には見えないけど喚びだしたときに『めしいのおに』っていってるんだから鬼なんでしょう。いい加減名称を定めないと面倒だし……アイツとか言ってると大人になってから再び倒しにもどってこないといけない気がするしね。動きから察するに……図書館に近づくやつを優先的に狙ってるとしか思えないのよね」
 本当は鬼の言葉による裏づけがあるのでこんなに力強く断言できるのだが。
「よくこの状況でホラー小説の話をする気になりますね……流石先輩です。……いえ、わたしもキングは好きですけど。鬼の話は了解です。そう言われてみれば確かにそうですね……」
 しっかり話が通じてる……波長合うなあこの娘と。
「逆に言うと、図書館に弱点があると見ていいわ」
「でも……あの鬼倒すのは難しくないですか?先輩は荒事はお慣れのようですけど……でもやっぱり正面から挑むのは危険です。一歩間違うとあの世行きだと思います」
「真正面から挑めばね。さっきので弱点もだいたいわかったような気がするし……ここは学校。地の利はわたしたちにある。それにあいつそこまで強くないわ。武器も十分……勝算はある。アイツを倒してしまえば結界も解ける可能性もあるしね。
倒せないまでも図書館に侵入できる隙さえできればいい。最優先事項は『本の確保』。やっぱり読んでみないとお話にならないわ」
「弱点……?そんなのがあったようには思えませんでしたけど」
「ヒントは出てたのよね――はじめっから。まあ合っていなくても景気付けにはなるでしょ」
 不思議そうに首を傾げながらも、手を小さく挙げて発言の意志をあらわす三ノ宮さん。
「いや、二人しかいないから手、挙げなくても・・・」
「あ、そうですね。先輩、はりきっているところ申し訳ないですが……あの鬼の目的が図書館を守るということなら、どこかに立てこもって朝を待つという選択肢もあると思うのですが」
「あーうんどこかに鍵かげて閉じこもるってわけね。……ところで今何時?」
「え?8時16分ですけど……あ」
 右手の腕時計――三ノ宮さんは右腕にアナログの時計をはめている。今時腕時計している人も結構珍しい。
「夜明けまで長いよね……そして夜明けがきてもこの状況が打開されるとは限らない、ついでに言うと、あの鬼は鍵ぐらいどうにかできる能力がないとも限らない……まあないとは思うけど……あいつ消えれるのはどうもぱっと消えれるんじゃないかと思う節もあるのよね……それに、多分これが一番の理由、朝まで震えて待つのはわたしの性に合わない。……でも三ノ宮さんにわたしに付き合えとは強制できないわ、あなたがその選択肢をとるなら仕方ないから、丈夫なとこに立てこもっていいけど……」
 三ノ宮さんは大きく溜息をついて苦笑する。そして一度深呼吸すると、こう宣言した。
「先輩は攻撃的ですねー。わかりました、不肖、三ノ宮優羅、地獄の底までお供します!」
「この状況で地獄はまずいまずい」
「じゃあ天国の――」
「どのみち死んでる死んでる」
 やっぱりこの娘楽しい。
 自分がこの娘を完全に気に入ってしまっているのがよく分かる……この場はいいけど……あんまり仲良くするのも良くないな、と心の片隅で冷静に忠告するわたしがいた。

                        ◆

 その後、諸所の準備を済ませてわたしは一人、図書館前の廊下の陰に潜む。
 あとは、合図を待って作戦スタートだ。
 ……時間だ。
 校舎内の全てのスピーカーから大音量で音楽が流れ出す。
 全ては推測に過ぎないが―――あの鬼は聴覚に大部分の情報を頼っている。
職員室で完膚なきまでに破壊されたステレオ。敵対行動をとったわたしたちでなく、うしろにいた先輩を優先的に狙ったという事実。名前――『めしいのおに』。
 だから、大音量の音声で撹乱するという方策はけして根拠がないというわけでもない。赤外線とか見えてたらどうしよーとかは思わなくもなかったけど。
 というわけで三ノ宮さんには放送室に行ってもらった。それによって今スピーカーから音楽が流れている。
 まあ、だからそれについてはその成功している。たしかにわたしは曲とか音は長ければ何でもいいと確かに言った、言ったけど。
「……何でエレクトリカルパレードなんだろ」
 危うくその場でこける所だった。
 とてもじゃないが楽しい夢の国へ行きたい気分じゃないんだけど…
コミカルな曲調に後押しされるようにわたしは廊下を歩き出す。
 ――さあ、来なさい。
 心中でそう呟いた瞬間、現在校舎の中に流れている曲の雰囲気に全くそぐわない異形の鬼が、廊下の端、図書館前に現われた。
 能力を使用して発声。これで確実に言葉は伝わる。
 意味は理解できなくとも意志は伝わるはずだ。
『ハーイ、今晩は、ザッツミラク穴熊から出られない哀れな鬼さん?保守的だと女の子に嫌われちゃうわよ?いい加減早く帰りたいし、さっさと仕留めてあげるからかかってきなさい。それとも――獲物に反撃されるのが怖いかしら?』
 ――挑発という意志が。
 エレクトリカルパレードがバックミュージックではいまいち締まらないけど……
 この挑発は効いたようで、こちらに向けて一直線に――ってはやっ!
 一段と早い。ナイフで迎え撃とうと構え――ナイフを見事に弾き飛ばされた……ってちょっとしゃれにきゃっ。
 組み付かれて廊下に押し倒された。爪が肩に浅く食い込む。
まずいっ!逃れようともがくが、思ったより力が強く――息を呑んだ。
 目の前にある鬼の口が信じられないくらいに大きく開いていて、口の周辺に生え揃った尖った歯が白く目立つ。その奥はただ深い深淵でそこからはゴウゴウとなにか音が、全てを飲み込むように――しまった呑まれて体が動かな――
「先輩!」
 その声で体が覚醒。動く!左手で腰の四角い物体を鬼の体に押し付け、スイッチを入れる。ビクリと鬼の体が硬直し、その後弛緩する。効いた!体全体を使って鬼の体をを跳ね上げ、束縛から逃れる。廊下の向こう側からこちらにむけて焦った様子で走ってくる三ノ宮さんが見える。
「私はただせつ――」
 何か言おうとしていた三ノ宮さんを遮ってわたしは怒鳴る。
「わたしがやられそうになっても無視して図書館に行けっていったでしょ!」
「でも――」
 ボウガンをぶら下げた三ノ宮さんに向って走りよりながら、ビクリ、ビクリとスタンガンの電撃により痙攣している鬼をちらりと観察。
 とどめを刺すか?と一瞬まようがナイフは持っていなかったことに気が付き、自分の懐を探り、閃光手榴弾を取り出す。
「いいから図書室に行くわよ。走って」
「先輩、あいつまだ」
「いいから走る!」
 ピンを抜いたそれを無造作に後ろに投げ、三ノ宮さんの手を取って走りだす。
 奇しくも音楽はエレクトリカルパレードからインディ・ジョーンズのテーマに変わる。パーッパパッパーパーパパ―……
「……なんのテープセットしたの?」
 耳をふさぐように指示しながら、そう聞く。
 次の瞬間、閃光と音があたりを支配し、一瞬全ての音を掻き消す。その閃光の最中も私達は駆ける。
「え?なんかサウンドトラック名曲大全集とか書いてありましたけど・・・?長そうでしたし」
 耳をふさいでいても多少効いたのか顔をしかめてそう答える三ノ宮さん。
「いやまあいいけど……」
 うしろを振り向くと鬼はゆっくりと立ち上がろうとしていたが、バランスをとりにくいのかフラフラしているのが見て取れた。効いてる効いてる。
 さて、最後の締めだ。
 わたしたちはようやく図書館に侵入する。

                       ◆

 鬼はしばらく意識が定まらない様子でフラフラとしていたが、立ち直ったのかこちら――図書館側に向けて疾駆してくる。やっぱり感知能力あるのかな……だとしたらまずいかもしれない。でもまあやるだけやってみよう。
 曲はターミネーター2になっていた……もうコメントなんかするもんか。
「まったくしつこい!鬼はだいたい退治されるものなんだからおとなしく消えうせなさいっていうのよね!」
 鬼の視線がそちらを向く。気づくな……
「さあて最後の大勝負と行きましょうか。その脳天めがけてナイフを振り下ろしてあげるから!」
 鬼がそちらを向いて飛び掛る。よし。
 当然ながら鬼の爪はなにも掴むことなく、空を切る。
「どっち向いてるの?わたしはこっちこっち」
 再度の声。鬼は探るようにあたりを見回し音源を捜す。
 呼吸を殺せ――
「いい加減とろくさいのよね―ー」
 鬼の爪が床に置いてあるボイスレコーダーを捕らえる。
かかった!
 正確に描写しよう。
 スティック型のボイスレコーダーはA4の紙の上の中心置いてあり、ボイスレコーダーは再生ボタンとスピーカー部分を残して白い物質で包まれていて、さらにそれは黄色の線でぐるぐる巻きにされており、さらにその白い物質には棒状のものが埋め込まれている。さらにA4の紙の余った部分には粘着性の接着剤がべったりと塗られている。
 となると、ボイスレコーダーを殴りつけた鬼のては当然A4の紙にくっつくことになる。まだボイスレコーダーからはわたしの録音した声が途切れ途切れに聞こえてくる。
 鬼は不思議そうにその声を発しているボイスレコーダーを顔の前に――わたしは図書館のドアの隙間から出していた頭を引っ込めると、扉から転がりつつ離れ、手に持っていた遠隔信管のスイッチを押す。
 轟音。
 校舎全体ががビリビリと震えるほどの震動。
 これが和真ロッカーに入っていた多分もっとも違法なもの。C4、プラスチック爆弾だ。正気を疑うぞ本当に。
「ああ、ついでに手動的に消滅したんだ……あんまりうれしくもないけど」
 これでさすがにノーダメージというわけにはいくまい。
 ふう、と一息ついていると、
「先輩――」
 ああ、あった?と先に図書館内に本を取りにいってもらっていた三ノ宮さんに声をかけようとして彼女の顔色に気づく。
 嫌な予感。
「――本、どこにもありません」
 突然、廊下の音楽が途切れた。え、テープ終わり?と思ったが、図書館からは音楽が聞こえている。図書館内の放送は音量を外からは変えられない仕組みになっているので音は小さいが。そのスピーカーからはまだターミネーター2が……いや、いま終了した。
 静寂の合間をぬってカチカチと足音が――図書館内のスピーカーからは暗い重低音の曲が流れ出す。出来すぎだろう。ダース・ベーダ―のテーマと言うのは。
 戦慄を覚えながら振り向くと、入り口のドアから、片方の体が半分ごっそりと削れて、よりいっそう不気味さを増した鬼が、姿を現した。

3話 古本は紙魚の骨を食べるか -5-

―――本当に夜の学校は不気味だと思う。
 正確にいえば、夜、というほどまだ暗くはないのだが、薄暗い廊下に響く自分達の足音はいつもより大きく聞こえて、不安を煽ってくれる。
 とりあえず靴を履き替えに教室へ。
 学校指定の革靴でアクションをやるにはどうにも不安が残るからだ。
 本来ならスカートも履き替えたいところではあったが、流石にそこまではやらなかった。
 三ノ宮さんにも靴替える?と聞いたところ、わたしは体育苦手ですしあんまりかわらないです、と返ってきた。履き替えないと、余計危ない気がするんだけど……まあいいか。
 とりあえず、ここまでは何のこともなくいたって平穏――逆にいえば完全武装している私達こそが異常でおおげさに思えてくる。
 しかし、この校舎から出られないことは純然たる事実だし、さっきの奴が幻覚とは到底思えない。
「―――静かですね」
 三ノ宮さんはボウガンを若干重そうにして持ちながら、小声でわたしに話し掛ける。
「ええ、でも逆に不気味ではあるわね。あれから特に悲鳴も物音も聞こえないし」
「時間が時間ですし、生徒なんてほとんど残ってないんじゃ――」
「生徒、はね」
「あ、先生達―――」
「残業で残っている先生もいるだろうし、そうでなくても用務員さんとかはまだいるはずよ。宿直室はこの校舎内にあるんだしね。現に――ほら、職員室には明かりがついてる」
 わたしは窓の向こう、向かい側校舎1階に見える、電気がついている職員室を視線で示す。
「でも、人影は見えませんね」
「まあこの時間なら残ってる先生も少ないとは思うけど――」
 それとも、もうすでに、ということであろう。
「先輩、やっぱりこのまま図書館に?」
「ええ、行きましょう。うろうろしてるうちに出くわすかとも思ってたんだけどね」
 まあ、それならそれで話は早かったのだ。
先ほどの遭遇で、相手はとりあえず普通の女子高校生(この場合はわたしのことだ)でも反応できそうなスピードで動いていた。
 経験や鈴華から聞いた話からすると、世の中には人の目で追えない動きをする化物もいるのようなのであれはまだましな部類だ。多分。
 たしかに動き自体は変則的(なんだあのジャンプ力)で、姿形も一般的な動物とかけ離れていたが――逆にいえば、それだけだ。
 姿形に惑わされ、足でもすくまない限り、普通の動物を相手にするのとそんなに変わらない。
 むしろ飢えた野犬の群れを相手にするほうが危険度は高いかもしれない。
 攻撃力も壁に爪痕を軽くつける程度では野生の熊とそこまで変わりはしまい。
むしろ熊より力は弱いんじゃないかな。
 とはいうものの、それぐらいでも普通の女子高生2人が殺されるには十分なのだけれど。
「とりあえず、なるべく静かに図書館前の廊下まで行きましょう」
 三ノ宮さんが頷くのを確認し、わたしたちは図書館へ――遠くから、複数の物が崩れるような音が、廊下の空気を伝わってわたしたちの耳に届いた。
「今の――どこからかわかる?」
「下の階からみたいですけど――」
 わたしの問いに、三ノ宮さんはそう答え、少しだけ逡巡したあと。
「先輩、私ちょっと行ってきます―――」
 階段にむかって走り出した。
「ちょ――」
 実は直情系の性格だったりする?行動が速い。そして迷いがない――というよりは何か気になることでもあるのか。
 本当はこの間に図書室に侵入するべきなのだろうが、放っておくわけにもいかない。
 わたしもなるべく足音を殺しつつ、彼女の後を追った。

                       ◆

 一階に下りると、今度は断続的に激しい物音が響いてくる。ん?音に混じって、――音楽だろうか?リズムのある旋律もかすかに聞こえてくる。
 その音に誘導されるように先を急ぐ三ノ宮さんを追ってわたしは廊下を警戒しながら進む。この方向って―――わたしが廊下を曲がろうとしたところで、一段と大きな音がし、それきり静かになる。音楽も止まった。
 そちらの方向を見ると、沈黙の帳が落ちた廊下には、一箇所だけ明るくなっている部分があった。
 開いたドアから光が漏れ出しているのだ。廊下の床を切り取るようにぼんやりとあかるいその光を出している部屋は、さっき向こう側の校舎から見えた唯一明かりが灯っていた職員室だった。
 職員室手前で立ち止まっている三ノ宮さんに追いつくと、先に行く、と視線と手で合図を送る。
 それは彼女に通じたようで神妙に頷いた。
そろそろと入り口のドアに近づき、中のようすを伺う。
―――ひどい有様だった。
 ペン類や紙類、教科書、湯呑み等は床に散乱し、大きく割れた花瓶から漏れ出した水が大きく床をぬらしている。水机は斜めを向いていたり、椅子に至ってはひっくり帰っているものまである。
そして、これだけの狂態を晒しているのに関わらず、入り口から見渡すかぎり、誰もいない。
 わたしは、サバイバルナイフを鞘から抜き出すと、重さを確かめるように手に握ると職員室内に侵入した。
 ナイフはまあ扱ったことがないというわけでもないのだが、人外相手にどこまで通用するか。第一刺さるんだろうか。いやまあ見た限りではあまり丈夫そうな印象のやつではなかったので大丈夫だろうけど。
 それにこう見えても刃物はあんまり好きじゃない。
それはともかく――いない。物音ひとつしない。……おかしいな。ついさっきまでは。奴がいないはずはないのだが――ゆっくりと歩みを進め、部屋を見渡せる位置を確保すると、すばやく視線を走らせる。やはり何もいない。
 と、入り口からひょっこり顔を出し、室内の様子に顔をしかめながらも、こちらを伺っている三ノ宮さんが見えた。
 死角になっている部分をチェックしようと、こちらに来ようとする三ノ宮さんを手で制し、わたしは慎重に室内を確かめる。
結果。
 いない、結局職員室には誰一人としていなかった。
「うーん……」
 警戒を解き、わたしは考え込む。おかしい。あきらかに変だ。ここに奴がいないのはまだいい。
 でも、なんでこれだけ争った痕跡があって、血痕がひとつもないのだろう?
 先生の私物なのだろうか、わたしはなにか強い力で破壊され、床にバラバラに散らばってだらんと中の機械を垂らしているちょっと古い型のCDプレイヤー付きステレオを見つめながら思索を進める。
 まさかとは思うが実体じゃなくて幻覚………?いや、壁に爪痕はたしかについていたし、この室内の荒れようは人間がやったにしてはひどすぎる。
「……うーん」
 三ノ宮さんは荒れた職員室内を物色している。物色という言い方は悪いけど、今はお茶缶の蓋を開ける必要性は0に思えたのであえて物色という言葉を使おう。
……いやもういいけど。
「……誰もいないですね。あれ、難しい顔してなにかお悩みごとですか?先輩?」
 三ノ宮さんトコトコこちらに近づいてくるとそう話し掛けてくる。
「……なんで血痕のひとつもないのかと思って」
 わたしは正直に答える。予想されるのは血すら残らない方法で――しかしあの姿形でそんなような能力を持っているとは――目撃者である三ノ宮さんは現に食べられたと言ってるんだし。
「?そりゃないと思いますけど?」
 不思議そうな顔をしている三ノ宮さんの顔をわたしは凝視する。
なにをそう当たり前のことのようにオッシャッテルンデスカ?
「ちょっと待って、たしかあなた食べられたって言わなかった?それなら血の後がべったり残っててもおかしくないはず――」
「いえ、ですから頭から丸呑みにされたって言ったじゃないですか」
 人の話はちゃんと聞いて下さいねーなどとでも言いたげな三ノ宮さん。 
 ちょっとまてまさか――
「ええっと…それは比喩表現じゃなくて?」
「はい、こう口をありえないくらいにあぱーんと」
 三ノ宮さんは両手で口の開き具合を表現する。その仕草が可愛かった…ってそんなこと思ってる場合じゃなかった。
 まいったな……そこまで非現実的(学校に閉じ込められているこの状態でいまさらという話はあるけれど)だったとは……と、なると逆説的に犠牲者が助けられる可能性が出てきてしまった。
 非現実的な事象には非現実的な解決が用意されているのがこの世の真理……である場合が多い。いや、ま、予測にすぎないんだけど。
 思考を断ち切るとわたしは息を吐いて気合を入れなおす。
「ま、ここで考え込んでいても仕方ないわね。さっさと図書館に行きましょう」
「了解であります」
 軽快に敬礼などする三ノ宮さんに軽い頭痛を覚えながら、わたしたちは職員室を後にした。

                       ◆

 なるべく息を潜めながら廊下を歩き、図書館の真下の階段までやってきた。
 これまで何者とも遭遇はなし。人の気配すらしない。やっぱりもう、人は――
階段の上の方からテンポの速い足音が聞こえてきた。足音は静かな校舎に反響してよく響く。つまり、誰かが上から降りてくるのだ。
 わたしは三ノ宮さんと顔を見合わせ、壁に張り付くように指示する。
まあ足音がするということは人間だろうとは思うけど、もしかしたら追いかけられているのかもしれないので警戒するに越したことはない。
 階段を走って降りてきたその人影に、タイミングよく声をかける。
「こんばんわ」
 ……もうすこしなんか気が利いたセリフはないのかと自分で思わないでもなかったけど、まあ時間的にはこんばんわだろう。
 階段を降りてきた彼女――そう女性徒だ――はビクッと身をすくませた。
 ギギギと音でもなりそうな動作で首をこちらのほうに向け、安堵――そしてわたしたちをよく観察して驚きに目を見開く。
……まあ普通の反応だよなあ。
「あ、あなたたち何してるの…?」
「先輩こそ……こんな時間にどうかされたんですか?」
 リボンで3年生と判別したわたしは余裕のある声色でにこやかにそう聞いてみる。
我ながら性質が悪い。何も彼女の後ろから来ないことを確かめてからの発言だったが。おかしいな……アレがきていると思ったのに。
「何って……今から帰るところに決まってるじゃない」
 ん?その先輩の喋った内容と様子にすごいひっかかった。何か隠してる?
 ってことはつまり――まあ、その前にわたしたちの格好にツッコミはないんですか?とも思ったが、かなり何かに怯えている様子で、声も震えているので仕方ないのかもしれない。
 まあその、現実を受け入れられないのはもっともな話なんだけど……
「ええっと……その残念ですけど帰れないと思いますよ?」
「――え?」
「ドア、開きませんから」
 そう言ってわたしはすぐそばの非常口を指差す。
「なに、馬鹿なこと言って――」
 廊下は薄暗いが、鍵が開いているというのはこの距離ならば見て取れる。
そう言って先輩はノブを回して――もちろん開かない。開いたら私は速攻で帰る。
「嘘――」
「ええっと窓も他のところもそうなんですよね……鍵は開いているのに開かないんですよね……要するにこの校舎に閉じ込められているみたいなんですよね」
わたしはつとめて明るい口調で言う。
「嘘――」
 先輩はガタガタと震えて、手近な窓にとりつくと鍵をガチャガチャいわせて一所懸命に窓をあけようとしている。
 先輩、と袖をひっぱられて耳元にささやく声。
 なに?と小声で返す。
「図書室にいた3人のうちのお一人です」
 厳しい目で彼女を見つめる三ノ宮さんに
「あ、やっぱり?」
と返すわたし。
「なんで、なんで開かないのよ……!あの化け物は夢じゃないっていうの……そんなの……ありえない」
 大声を出して叫ぶ先輩。取り乱す気持ちはわかるけど……
「あの化け物というのは何ですか先輩?」
 わたしは追い討ちをかける。
「――っそれは」
 ビクリと身をすくませ言いよどむ先輩。その顔には恐怖と不安と驚愕が混じっている。そして、わたしたちを再度観察してそれは不審に代わった。
「あなたたちなんでそんなの持ってるのよ……」
 わたしたちから怯えるように後じさる先輩。うんまあ仕方のない反応だと思う。
「ああそれは、たぶんその化け物に遭遇したからですよ?」
 にこやかに微笑んでわたしは答える。われながら意地が悪い。
「……冗談でしょ?あれは夢の――」
「これが夢だったら、わたしも早く目が覚めたいところです」
「……おかしいわよ……なんであんなのに出遭ってあんたたち生きてるのよ!そんなのありえない!」
 声を絞り出すようにして大声を出す先輩。
むか。人が必死で逃げたのに……というかだいたいあなた達が事態の原因じゃないんですか?
「あのですね先輩、あんなもの喚びだしておいて――」
「先輩」
 さすがに文句のひとつも言ってやろうと思って声を上げかけたところで、三ノ宮さんの真剣な声音に意識をそちらに戻す。
「―――来ました」
 振り向くと、50mほど離れた廊下の中央に、いつのまにか現われたこの事態の現況であると思われる青白い肌の鬼が、いびつな四肢を従え、こちらにその不吉な顔を晒していた。

                        ◆

 距離が非常に微妙だ。彼我の距離は50m。
 見通しのいい廊下だから相手がよく見える。
 鬼とわたしたちの間に緊張が走る――いや、緊張を感じているのはわたしたちだけか。どうする?この距離なら逃げられるような気がするが――。うしろに視線をやる。先輩はガタガタと震えながら50m先の鬼を凝視している。
 彼女を連れて逃げ切れる自信がない。見捨てる――というのはなんというかあくどい選択肢なので頭の片隅に留めておくだけにする。よって――迎え撃つしかない。
―――と、唐突に鬼が動いた。
 ねじくれた四肢を器用に動かし、こちらに襲い掛かってくる。
とりあえず、やるだけやってみるか。
 わたしは鞘からナイフを抜き放つ。
 と、傍らで三ノ宮さんがしゃがむのを視界の端でとらえた。
 彼女は危なげない動作で廊下に膝をついて慎重に狙いを定めている。
「撃ちます」
 彼女は自分に言い聞かせるようにしてトリガーを引く。
ヒュン、と風切り音とともに矢は黒い影になって発射された。
 彼女の狙いは正確だった。しかし、矢は当たらずに、鬼のいた空間を通過する。
なぜなら、矢が到達する前に鬼は跳躍し、横の壁にしがみついたからだ。
 掲示板――緑色の柔らかい材質のアレだ――に爪を食い込ませ、その他の足で掲示板の枠に器用にしがみついた鬼は、一瞬の溜めの後にこちらにむかって跳躍する。
と、冷静に解説している場合じゃなかった。
 わたしは三ノ宮さんをかばうように前に出て、ナイフを片手で構える。
 多少意表をつかれたが、その跳躍は計算の範囲内!
 カウンタ―気味にナイフを入れてやろうと、待ち構えるわたしをナナメに通り過ぎて、鬼はわたしの横の壁に取り付くって―――まずっ!
 慌てて体を捻ってそちらにナイフを差し出した瞬間、鬼の爪とわたしのナイフが交差する。っ!危うく吹き飛ばされそうになるのをなんとか踏ん張って耐える。
 ヒュー、という耳慣れない音が耳に入ってくる。
 何の音だろう、と思考する間もなくそれが鬼の口から漏れ出ている音だということに気づいた。
 うう、間近で見るとやっぱりインパクトある顔……目の部分には真っ黒い穴が開いており、その中は底が無いようにただ暗い。ざんばらに顔にかかっている髪がよりいっそう不気味さを感じさせる。
 などと悠長に思う間もなく鬼はこちらを押さえつけようとする。両腕でこちらを押さえ込もうとするのをなんとか体をくねらせてかわす。(この間にも片方の手は鬼の爪と交錯中だ)
 しかしそのうち、片方の手が私の肩を掴み――しかしその手は一瞬で離れ、鬼の顔の横に添えられた、と思った一瞬後、その手にブスリと突如矢が突き立った。一呼吸、間が空いて鬼の口から悲鳴が漏れ出る。
 どうやら痛覚はあるらしい。
 わたしはその隙に全力で足を前に蹴りだし、鬼を向こうへ蹴飛ばす。ん?思ったよりめちゃくちゃ体重軽いぞこいつ。
 わたしの蹴りで数メートル吹っ飛んだ鬼は、すぐさま起き上がり、手から矢をわずらわしげに抜き、一度後方に跳躍すると、こちらを睨みつける。
「ありがと」
「いえ、どういたしましてです」
 わたしは至近距離から再び矢をぶち込んでくれた三ノ宮さんにお礼を言う。
 頼りになりすぎるぞ後輩。頭に刺さってりゃ終わってたかもしれない、惜しい。
というかいくらあーいう姿形してるからって容赦なく撃てるのはすごいぞ。
 再び距離が離れ、わたしたちは向かい合う。さきほどと違い今度は10mほど。鬼の跳躍力なら一気に飛びかかれる距離だ。
 鬼もわたしたちを警戒してか、すぐさま飛び掛ってはこない。
 緊張した時間が流れる。
 その緊張を打ち破ったのは、わたしが存在を忘れていた3年生の先輩だった。
「イ、イヤァァァァ!もうイヤ、イヤよこんなのっ!」
 そう叫ぶと、階段を登って上へ走って行く音がする。
一瞬でもそちらに気を取られたのが不味かったのか。
『そこか――』
 鬼の叫び声。意志のある叫びはわたしの能力で自動的に変換される。
その叫び声に一瞬気をとられる。どういう――?
 気が付いた時には鬼が、こちらにむけて疾走をはじめていた。
「しまっ――」
 た、と思った瞬間鬼が視界から消える。また壁に、と視線を巡らせるも、上下左右どこにも―――次の瞬間気づいてぞっとする。
さらに鬼の咆哮がわたしの耳朶を打つ。
『そっちだめ――』
 まずい後ろを取られ――と思い振り向いても鬼の姿はなかった。
「――?」
「先輩あいつ階段――」
 げ、まずい!と思うと共に冷静な自分が同時に疑問を叫び出す。
『なんで?』と。
 なんでわたしたちを狙わずにあっちに行った?
 さらに地の底から響くような鬼の叫び声。
わたしの能力で叫び声の意味が流れ込んでくる。
『まもる――』
「先輩はやく追いかけないと!」
 この子はやっぱり良い子だ。多分間に合わないと分かっているだろうに。
でもまあ、追いかけないわけにはいかない。
 案の定、わたしたちが階段を踊り場まで上がったところで、聞こえていた悲鳴は途絶えた。声が途絶えたことに立ちすくみ、さらに先を急ごうとする三ノ宮さんをわたしは肩を掴んで止める。
「一旦引くよ」
わたしは冷静にそう言う。
「でも!」
 わたしは努めて小声で、しかし強い口調で話し掛ける。
「いいから、だいたい仕組みはわかった気がするし。どうせこのままじゃ勝てないと思う。いい、なるべく静かにこの場から離れるよ。―――忍び足は得意なんでしょ?四の五の言わずについてきなさい」
 わたしの表情と口調に気圧されたのか、三ノ宮さんは黙って頷いた。
 
さてさて―――予想が合っていればいいんだけど。

3話 古本は紙魚の骨を食べるか -4-

「あのう…、どこにむかってるんでしょう?」
 前を歩くわたしに『窓際の君』こと――三ノ宮 優羅(自己紹介してくれたのでようやく名前を知った)さんがそう訊いてくる。
「ん?とりあえずこのままだと校舎から一歩も出られないし、反撃するにしても準備が必要でしょ?あなたの話からしてその3人のおかげでこんなことになったのは確定みたいだし」
 はあ、などと小首をかしげる三ノ宮さん。小動物的可愛さだ。
 あの後、とりあえず階段の踊り場から移動し、廊下を歩きながら彼女から聞き出した話はこうだ。

                         ※

 放課後、図書館で、三ノ宮さんはお目当ての本を探して、かなり図書館の奥、ひとのほとんどこない寂れた棚まで来ていたらしい。
 で、とりあえず近くの椅子に座って、本を読み始めたらしい、しかし、その本が予想以上にそれがつまならく、次第に船を漕いでそのまま閉館時間――というか電気が消えてたというから驚きだ。誰か起こしてやればいいのに。
 まあ気づかれなかっただけという話もあるけど。
 で、あわてて本を戻して帰ろうとしたところで、電気の消えた図書館内に人の話声が聞こえてきたそうだ。なんだろうと思ってそちらを伺うと、テーブルの上に一冊の古そうな本を置き、それを囲むように3人の女生徒がなにやら小声で言い合いをしていたらしい。
 なんとなく出て行くのが憚られた三ノ宮さんは、棚の影から様子を伺うことにしたらしい。
『ねえ、やめようよ……』
『いまさら何言ってんの、これ絶対マジモンよ』
『でも、まさか本当に見つかるなんて――』
『何?ビビってるわけ?あんたが一番乗り気だったじゃない』
 耳をすませるとそんな会話が聞こえてきたらしい。
 そして、そのうちのリーダー格らしき人物が本を開いて、
『ええっと……めしいのおにさまねがいます。わたしたちのねがいをおききください。えるふとらゆらゆ・たなかるないみ・たなかるないむ、あなたのあそびにおつきあいいたします、へるふへるふ・へたなかのみか・せまりえか・せまりえか・りたのここやなむいよみふひ』
 その瞬間、空気がたしかに変わった―――
と三ノ宮さんは証言している。
 そして、奴は本から現れた。

                         ※

「でも、よく逃げられたね」
 わたしはあいつの異様な姿を思い出しながらそう質問する。あれは日常生活を送っていると絶対遭遇しないインパクトがある存在だ。よく腰が抜けなかったもんだと感心する。
「私、忍び足とか得意なんです」
「いや、そう言うことではなくて」
 真面目にそう答える三ノ宮さんにわたしは思わずツッコミを入れる。
 ……どうもこの子はちょいとズレてるような気がする。
 そういえば出られない、ということを確かめてみせた折にも、ドアノブをじっと見つめてなにやら真剣に悩んでいる様子だった。
 まあ、泣き叫ばれるよりはずいぶんいいんだけど。
「でも私、あの人達見捨てて――」
「気にすることはないんじゃない?あなたはどちらかといえば巻き込まれたんだし。――ー3人とも?」
「……はっきり見たわけじゃないですけど、一人は確実に頭から丸呑みされてました…」
 やれやれだ。
 しかし、物理的危険というのは実に久しぶな気がする。いつ以来だろう……と漠然と考えているうちに、目的の場所に到着した。ポケットからキーホルダーを取り出すと、鍵を選って鍵穴に差し込む。
「……あのう……なんで歴史資料準備室の鍵とか持ってるんですか?」
 三ノ宮さんから、まあ当然質問が飛んでくる。
「あーその、まあいろいろとね?」
 答えになってない答えを返すと、わたしはひんやりとした空気の歴史資料準備室に踏み込む。部屋の中はよくわからない掛け軸や、地球儀、模造紙の束、何か良く分からない船の模型など、物であふれている。年に一回使われればいいものや、カリキュラムの変更で使われなくなってしまったものまで様々な資料で溢れ返っている。
 わたしは首を巡らし、目的の物を発見した。
「あ、閉めといてね。なるべく静かに」
 部屋の隅にひっそり打ち捨てられたように佇む金属のロッカー二組。
わたしはその前に立つと、再び鍵束から鍵を探し出し、左側のロッカーに差し込む。
「わりと固い鍵ね……よっと」
 思ったより固かった鍵を回し、これまた立て付けの悪いロッカーの扉を開く。
まず目に入ったのは、ロッカーの上から金具で無造作に釣られた、黒い金属製で無骨なフォルムのクロスボウだった。
 見るからに凶悪な面構えで、ロッカー内に鎮座している。
「さすが和真。最初からいきなり飛ばしてくれるわ……」
 そう、これは和真から『なにかあったらここのロッカー使え』と言われていたものなのだ……(歴史資料準備室の鍵とセットでくれた)それはいいけどあいつは学校で何する気だったんだ?
 とりあえずクロスボウ(スコープ付き)を外に出し(結構重かった)、まだいろいろ出てきそうな怪しげなロッカーをがさごそと漁る。
「あの、これってボウガンに見えるのですが……」
「うん、まあボウガンとも言われるわね」
 そうあいずちを打ちつつ、さらに中を探る。
「ん?ボイスレコーダー?」
 下のほうにある、何かの箱の上にちょこんと棒状のボイスレコーダーが置いてあった。
 わたしはそれを手にとると電源を入れ、おもむろに再生ボタンらしきものを押す。
『この音声ガイダンスは坂下空音さん用に作られており、もしそれ以外の人物がこのガイダンスを聞いている場合は即刻このボイスレコーダのスイッチを切るように……』
 ……無駄に手が込んでいる。
「先輩、どうしたんですか、そんな怪しげな宗教テープみたいなのを一生懸命聞いて……?」
「え?怪しげなって………あ」
 これ、日本語じゃないのか。わたしの能力は意図的にOFFにはできるものの、通常は軽くONが常態なので気づかなかった。なるほど、確かに『わたし向け』だ。
「あーいいのいいの、一応ちゃんと理解できてるから」
「はあ……」
 わたしはテープの声に耳を傾ける。
『さて、とりあえずロッカー内にあるものを順に説明していこう。まずもう目に入っていると思うが、そのボウガンだ。使い方は右下の青い箱に冊子が入っているからそれを参照するように。コッキング式で強力だ。矢もその中に入っている。次に――』
 説明が淡々と続く。ところでこのアラビア語(多分)を喋っているオジサンは誰だ。中年のえらく渋い声なんだけど。
 まあそれはともかく、説明にしたがって中を改めていく。ピッキングツールにライター、ナイフ一式セット、工具セット、強力接着剤、発煙筒、伸縮式警棒に、スタンガン、催涙スプレー、まきびし……まあよく揃えたもんだ……んで、こっちが……オカルト?……清めの塩とかとりあえず今はいらない……なんで弓がなくてかぶら矢だけとかあるんだろう?意味ない……
 ポマードとお歯黒っていうのはギャグなの?何だこの魔法瓶えらくなんか丈夫そう……って中身は液体窒素って!瓶と石油と洗剤と布……?ってこれ……学校を焼けとでも言う気なのかあいつは!
 この機械は……ガ、ガイガーカウンター……放射能は勘弁してほしい、というかあいつの想定している事態が分からない。
 暗視ゴーグル……特殊部隊の様相を呈してきたな。これ……手榴弾……あ、スタングレネードなのね……いやもういいけどさ……。スクールウォーズが楽々できるぞ……でも一応違法なものは今のところないのか……ナイフとかスタングレネードとかは微妙だけど。銃とか出てくるかとも思ったのに。
 この一番奥にあるのは……あはははははは、うんまあそりゃ見た目でぱっとはわからないだろうけどさ……最後のこれはいくらなんでも違法だろこれ……でも使い方がちょっと分からない……あ、ご丁寧に説明してくれるんですか……ふーん電気式なのね……(以下略
『……以上で説明を終了する。では諸君の健闘を祈る。なおこの音声データは手動的に消滅する。申し訳ないですが消しといてください』
 チャラ〜♪
 最後は音楽までついていた。別にそんなのはいらないと思う。というかスパイ大作戦だったんだ……
 結論。和真は阿呆だということが良く分かった。
「わーすごいすごい、四次元ポケットみたいなロッカーですね先輩!」
 ……この娘はこの娘で問題がある。なんでこんなに能天気なんだろう……
「とりあえず、アイツ倒すか、呪物――この結界作っているものを壊さないと多分校舎から出られないから――ええっと三ノ宮さん何か特技とかある?」
「アーチェリーなら得意なんですけど……」
「じゃあクロスボウ担当する?わたし射撃は苦手で……」
「いえあの……アーチェリーとクロスボウってぜんぜん違うんですけど……」
「気にしないで」
沈黙。ちょっと気まずい。とりあえず作業を進めることにした。
「坂下先輩。その、なにかこういう事態に慣れているようにお見受けするのですが……」
 袋にいりそうなものをとりあえず詰めているわたしに三ノ宮さんが探るような目つきで話し掛けてくる。
「不幸な星の元に生まれたみたいなのよね……そういうあなたも普通もうちょっと怖がったりすると思うんだけど?」
「あ、わたし小さい時誘拐とかされてますから。その影響もあるかもしれないです」
 ……さらりと今ものすごいこと言ったな。本人はにこやかに微笑んでいるけど。
…なるほどね。ちょっとだけ納得がいった。
 必然、という言葉が頭の中に浮かんだが、すぐに消去した。
運命などという言葉はわたしは大嫌いだからだ。
 しかしこの娘がパートナーというのは不幸中の幸いというべきだろう。
「ええっと、とりあえずこれからどうしましょう?」
「とりあえず靴を履き替えましょう。その後は威力偵察かな。できれば図書館の本を押さえたいと思う。それが呪物のような気がするし……すんなりとはいかないでしょうけど。とりあえず地の利はこちらにあるんだし」
「……まだ他にも校舎内に人がいる可能性もありますけど――」
 むろんその可能性もある。ほとんどいないと踏んではいるのだが。少なくとも職員室にはまだ人がいるはずである。鍵を返しに行く途中だったのだから。
「とりあえず放置するしかないと思う。探している暇がもったいないし、それよりは本を押さえるのが先決だと思う。多分、物理的な攻撃が効くとは思うんだけど、どのくらい効くのかはさっぱりわからないから、生存者が襲われているところに遭遇して、助けに行ったのはいいけど二次遭難という事態にもなりかねないしね。現段階では不用意に危険には近づきたくない、というのが本音かな」
「――見捨てるんですか?」
「ありていに言えば。とにかく問題の本を押さえたい。それを読めば何かわかるかもしれないし」
「――ーわかりました」
 しぶしぶ、といった感じで、そう答えた三ノ宮さんの瞳はまだ揺れていたけれど。
「気持ちはわかるけどね。生き残ることを考えましょう。それが一番必要なことだから。さて、準備はいい、後輩?」
「はい、先輩。お供いたします」
 元気なのはいいんだけどなあ……