4話 ハイウェイの澱 -1-


 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやってきた。(マルコ:5:2)


 春の足音が聞こえてくる3月――とはいうものの、外気はまだまだ肌寒い。
 もっとも高速道路を走る車の中にいるわたしには、外の気温がどうであろうと関係ないはずなのだ。
 
―――通常なら。

「右から来るわよ、気をつけて!」
 その言葉に呼応するように車体が急激に横にずれる。
 つられるように後部座席のわたしは、鈴華の入った箱をしっかり抱えたまま、その動きになんとか耐える。
 四つあるドアのうち助手席のドアがきれいになくなっており、冬の冷気がそこからゴウゴウと流れ込んできている。
ぶるる、と寒さに体を震わせながらもわたしは後ろを振り向く。
 なんとか距離はまた離れたみたいだな、と思いつつも、なんでこんなことになってるのかな、という気持ちが半分、やっぱりこうなるのか、という気持ちが半分という実に複雑な心境であった。
 あ、あいさつがまだだった。
 こんばんわ坂下空音――うわっ、いまガクンってなんか踏んだような。
 ええっと、もうみなさんだいたいお分かりいただいてるとは思いますが、現在、わたしたちは高速道路でカーチェイスの真っ最中です。



 ことのはじまりは、例の――春休みの旅行の件(※異人館で逢いましょう)を優羅が催促してきたことだった。
「……ほんとに行くの?」
 わたしが読んでいた新聞から顔を上げてそう胡乱げに問うと、優羅はじゃーん、などと口でわざわざ効果音を言って、どうだとばかりに神戸の観光パンフレットやガイドブックをテーブルの上に広げてみせた。
「この通り計画は万全です!」
 力強く断言する優羅。それは計画じゃなくって希望は万全と言うんじゃ、と思ったけど口には出さなかった。
 この目の前にいる小柄で可愛らしい(わたしの主観)一年下の後輩は、秋の事件で知り合って以来友達――というよりは一方的に懐かれたというのが正しいのかもしれないけど――になった、少し天然の入った(失礼)元気な娘だ。
「正直なところ、この前の雪山でろくな体験をしなかったからあんまり旅行とかは気が進まないんだけど」
 相変わらず元気だなあと思いつつ、遠まわしに断るようなわたしの言に、
「先輩、結局スキーとかは楽しそうにしてたじゃないですか」
 と、口をへの字に曲げて抗議する優羅。
「いや、まあそれはそうなんだけど……」
 それはそれ、というやつである。確かに久しぶりにスキーをやって楽しかったけど……いや、そんなわたしが楽しんだ話は今はどうでもよろしい。
「でも、リースさんとかの都合もあると思うし、いきなり押しかけるのはどうかと思うけど……」
「だから電話して聞いて下さい、今すぐに」
と、渋るわたしに対して優羅はあくまで強硬な態度で迫る。
 ……そんなに行きたいのだろうか神戸に。
「そして私に吸血鬼さんを紹介して下さい!」
 そっちか。
「優羅……いまさらだと思うけど、その恐怖感とか、嫌悪感とか……」
 ああ駄目だ、目が輝いてるよこの娘。
「さあ先輩、テレフォンしてください」
 ビシッ、とリビングの電話を指差す優羅。
 わたしは溜息を一つついて、リビングから出て行こうとする。
「あー、先輩逃げるのは卑怯ですよー」
「携帯にしか番号入ってないの」
 一応、番号は覚えていたりもするが、優羅の抗議にわたしは静かにそう答える。
「……それは失礼しました」
 その言葉を背に受けつつ、わたしは肩をすくめてリビングを出て行った。

 日は流れて5日後―――わたしは旅行用のディパック一つと、大きめの手提げ鞄を持って自宅マンションの前に佇んでいた。
 時刻は朝の九時。
 入り口のオートロックの前で一人寂しく立っていると、向こうからガー、という音と共に小さめのスーツケースをこちらに転がして来る優羅の姿が目に入った。
「おはようございます……先輩、荷物はそれだけなんですか?」
「うん、そうだけど?」
 優羅の疑問に軽い調子でそう答える。
「……少ないですよね」
「まあ、必要なものがあれば向こうで買えばいいし。これでも鈴華がいるぶん荷物は多いくらいなんだけど」
 わたしは鈴華が入った手提げ鞄を掲げてみせる。ちなみに、女の子にしては荷物が少ないことは自覚している。いいじゃないか、身軽なほうが好きなんだから。
「あれ? でも鈴華さんの姿は見えないですけど」
 優羅はわたしの周りをきょろきょろと見回す。
『おはようございます優羅様、やはり結界内でないと優羅様には見えないようですね……残念です』
 銅鏡の付喪神であるところの鈴華は、マンション内に結界を張っている。この効果の一つに存在の安定と拡大があるらしく、その影響もあってか多少霊感のある優羅にはマンション内では姿も声も見えるらしい。
 ちなみに結界内部なら、鈴華はどこでも自由に本体の銅鏡から離れて行動できるが、結界外だと本体から数メートルも離れることは出来ない。
 まあ、わたしは結界の外だろうが中だろうが、相変わらず姿は見えず声だけが聞こえるのでいつもとそんなに変わらないんだけど。
「うーん、やっぱり結界の外だと優羅には見えないみたい。まあ、いつもの通りちゃんといるからご心配なく」
「そうですか……あれ? 和真先輩はまだですか?」
残念そうにそう言った後、気が付いたように再びあたりを見回す。
「ああ、和真なら来ないよ?」
「な、なんでですかっ! 旅行の開放感が二人を深く結びつけるプロジェクトが台無しじゃないですか!」
「……ええっと優羅って和真が好きだったの?」
 違うだろうなー、とは思ったが一応ボケてみる。
「なにを阿呆なこと言ってるんですか? 先輩たちの話に決まってます!」
 相変わらずまあその、懲りないというか……いやもう別にどうでもよくなってる自分が少し悲しい。
「いや、昨日の夜電話があって用事で行けなくなったって」
「何でそこで食い下がらないんですか!」
 何でって言われてもなあ……あいつが一度OKしたのを断るのは相当なことだから、引き止めても無駄だというだけの話なのだけど。
「まあ、行けたらあとで行くって言ってたから、神戸にふらりと一人で現われるんじゃないの?」
 わたしは未来予想図を口にして優羅をなだめる。なぜわたしがなだめないといけないのかは甚だ疑問ではあったけど。
「で、優羅。許可はもらってきたんでしょうね」
 一人暮らしで身軽なわたしと違い、優羅はちゃんと両親がいる。それほど厳しくない家だとは聞いていたが、そういうのは重要だとわたしは思う。
 ちなみに、一度遊びに行った優羅の家はこの不景気な時分に不釣合いな豪邸で、母親はおっとりとした優しげな人だった。
「はい、ばっちりです!」
 優羅は今時堂々と臆面もなく両手でピースサインかましている。似合っているから別にいいんだけど。まあ許可さえもらっていれば別に問題はない。二泊の予定だしそうたいしたこともないだろう……何事もないのなら。
 ここしばらくわたしがたいしたトラブルに巻き込まれていないのが逆に不安要素なのだが――。
 と、そんな風にして優羅と二人、マンション入り口の前に佇んでいると、敷地内に一台の赤いスポーツカーが滑るように入ってくるのが目に入った。わたしは車に関しては全く詳しくないが、流線型のフォルムが格好いい。
 と、その車はパッパ―、とクラクションを軽くわたしたちに向けて鳴らし、滑るように目の前に止まった。
「スポーツカーで4ドアーは珍しいですね」
 優羅がそんなようなことをぽつりと呟く。
 エンジンが停止してドアが開く。降りてきたのは絵に描いたような、金髪碧眼の美女だ。
「ハーイ、空音、数ヶ月ぶりだけど元気そうね!」
 美女はそう明るい調子でわたしに話し掛けてくる。
 口から出てくるのは流暢な日本語で、まったくもって外人が喋っているようには聞こえない。いきなりこうして抱きしめられているところなどは、まったくもってボディランゲージの激しい外人らしいと思うけれど。
しばらく再会の感動をあなたに! といった風情でわたしを抱きしめていた金髪碧眼の美女――リース・シューヒロイデン・大宮さんは、視線を私の横で見惚れるようにしてリースさんを見上げていた優羅に移す。
「そしてこっちが空音が言ってた、一つ下の後輩ね。聞いてたとおり小さくて可愛い!」
 ぎゅー、と勢いにまかせて今度は優羅を抱きしめるリースさん。
 優羅はわたしより小さいので、長身のリースさんに抱きしめられるとほとんど体が見えなくなっている。
「すみません、わざわざ車で神戸まで連れていってもらうことになって」
 目を白黒させている優羅を横目に、ハグから解放されたわたしはリースさんにそう話しかける。
「いいのよ、電話で言った通り、友也のところに寄った帰りなんだし」
 リースさんはそう笑顔で言う。ちなみに友也さんというのはリースさんの彼氏さんだ。現在遠距離恋愛の真っ最中らしい。相変わらず仲は良好のようだな、とわたしは一人思う。
「はじめまして、三ノ宮優羅です。ええっと、リースさん道中よろしくお願いします」
 優羅は若干緊張しているのか多少呂律が怪しい。
「こちらこそ、こんな可愛い娘と知り合いになれてうれしいわ」
 リースさんはにこやかに微笑む。
「それで。ええっとあの、リースさんはその……吸血鬼さんなんですよね?」
 優羅はおそるおそる、といった感じでそうリースさんに訊ねる。
「ええ、そうよ? まあダブル――ああ、わかりにくいか、ハーフなんだけどね。ま、吸血鬼としての性質はあんまり受け継いでないからハーフでいいんだけど」
 おかげで太陽もそれなりに平気だしね、と付け加えてリースさんは笑う。
 そう、みなさんお忘れかもしれないので解説しておくと、この目の前の美女は何気に生物学的には普通の人間ではなかったりする。
 父に由緒正しい吸血鬼を持つ、いわゆるバンパイア・ハーフなのだ。本人の言うように吸血鬼としての性質は色濃くは受け継いでいないらしく、一部の能力を除き、そう普通の人間と変わらないと言うものの、血は摂取する必要があるところを見ると、吸血鬼を名乗るのには十分だろう。
 性格のほうはただの陽気なお姉さんだけど。
「私、吸血鬼さんというのは昼間はサングラスと帽子で完全装備と思ってました……」
 優羅の言う通り、リースさんはサングラスも帽子も装備していないし、特に日光に対してなんらかの遮蔽を行っているようには見えない。
「これでもUV対策はしてるのよ? サングラスは一応持ってるけど、友也が言うには私あんまり似合わないらしいのよね」
 そう言ってリースさんは肩をすくめる。
 サングラスの似合わない吸血鬼というのはどうなんだ、とわたしは密かに思ったが、まあ、そこは個性というやつだろう。
「そしてあなたが鈴華ね、パパが言ってた通り綺麗ね。和服もよく似合ってるわ! わたし付喪神と会うのは実は初めてなの、よろしくね」
『こちらこそよろしくお願いしたします、リース様』
 あれ、鈴華の声が若干固い気がする。そう感じたのは付き合いの長いわたしだけだろうけど。
 ははあ、エルクさん――リースさんの父親の件でまだ若干吹っ切れないぶぶんがあるとみた。まあ道中で改善されるだろう、とわたしは勝手な推測をする。
「連絡どおりあなたのパートナーの和真は来ないのね……残念だわ。まあ、仕方ないし女同士で気楽にやりましょう。じゃあ、荷物をトランクに積んで、さっそく出発しましょうか。さあ、楽しい旅行にしましょうね!」

こうして春休みの神戸旅行は幕を開ける。

――ハイウェイに何が待ち受けているかは、まだ誰も知るよしはなかった。