4話 ハイウェイの澱 -3-


これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、誰も彼を縛っておくことはできなかったのである。(マルコ:5:4)

 きょとん、とした。
 なぜかというと、前の座席の二人が一斉にこちらを振り向いたからだ。
「あの、二人ともどうかした?」
 優羅はともかく、リースさんは運転中に振り向くのはまずいんじゃないかなあ、などと思う。
 わたしの呑気な調子の質問に対して、二人の表情はこちらがびっくりするくらいに真剣だった。
 流石にリースさんは直ぐに運転に集中すべく前を向いたが、視線はバックミラーに注がれていて、優羅はまだシートから顔をだしてこちらを見つめている。
 わたしもつられるように、後ろを振り向く。
 別段、変わった様子はなかった。普通に後続の車が見えるだけだ。
 すぐ後ろの車は家族連れっぽい人たちが乗ってるようだ。
 助手席にいる小さな子供が、窓にぺったりと張り付くようにして座っている。
「別になんにもなさそうだけど?」
 その微笑ましい様子を確認して、再び前に振り向く。
「違います先輩、その後ろです」
 優羅はわたしの視線に気がついたのかそう真剣な顔で指摘する。
「うしろ?」
 わたしは訝しく思いながらも、さらに後ろの車に目をこらす。
 こちらも別段、変わった様子があるとは思えない。
 普通のベージュ色の乗用車だった。
 そう、左ハンドルだから外車――え?
 ちょっと待て、あれ、もしかして……助手席にしか人が乗っていないんじゃ!?
 ぞくっ、と背すじに悪寒が走った。
「な、何あの車!? なんでまともに走ってるの!」
 車内では最後に事態に気づいたわたしは、思わず驚きの声を上げる。
「ああ、先輩。もしかして、あれが普通の車に見えてたりするんですか?」
「え?」
 優羅の意外そうな声に、またしても驚きの声を上げるわたし。
『それは仕方ありません。空音はこういうのには本当に鈍いのですから』
「空音、私たちにはおおよそまともな車には見えないわ。車は車なんだけど――ー」
「何か『べったり』と、黒いものが全体を覆ってるんです。車体の色もわからないくらいに。ここからでも少し寒気がします……」
 リースさんの言葉を継いだ優羅がぶるっ、と体を震わせる。
『断言はできませんが、怨霊……いえ、あそこまでいくと悪霊といって差し支えないでしょうね。しかし、昔ならいざ知らず今の日本であれだけの……?』
 鈴華が何かを思案するように呟く。
「……とりあえず、様子を見ましょう」
 リースさんは視線をバックミラーに注いだまま、車線変更。追い越し車線に入り、スピードを上げてその車を引き離す。
 ぐいぐいと距離が離れる、と思いきや。車線変更したわたしたちの車を追いかけるように、同じ車線にその車は入ってくる。
「くそ、予想通りマークされてるわね……」
 リースさんが思わず毒づく。
『先ほどから、こちらに向けて負の思念が飛んで来ています。どうやら、完全にわたしたちが狙いのようですね』
 鈴華が冷静に解説する。
「やれやれ、特に恨まれる覚えはないんだけどな」
「私も身に覚えはないです」
「わたしだって特にないけど」
 リースさんと優羅は一瞬、こちらを示し合わせたように見て、何か言いたげな様子だった。
 ……いや、まあ二人には今までわたしが体験したことを話したりしているので、当然の反応なのかもしれないけど。
『……今回に限って言えば、狙われる理由に空音だけ関係ありません。多分、狙いは私を含めた、空音以外の全員でしょう』
「え?」
 鈴華の言に思わずわたしは問い返す。
『端的に申し上げますと、飢えているんです』
「なるほど、わたしたちはさぞや美味しい餌に見えるでしょうね」
 リースさんが納得したように言う。
「……た、食べられちゃうんでしょうか」
 優羅がひきつった表情でそう漏らす。
「物理的にはどうかわからないけど、生気は吸われるでしょうね。生命の保証はしかねるわ」
 リースさんがあっけらかんした調子でそう言う。
『わたしは直接吸収されるでしょうね。まあ、おとなしく取り込まれるつもりは毛頭ありませんが』
 鈴華も淡々とそう述べる。……二人とも落ち着いてるけど、もしかして相当まずかったりするのではないのだろうか。いや、パニックになられるよりはいいんだけどさ。
 ちらり、と後ろに視線を向ける。
 件の車は、後ろをぴったりと張り付くように一定の間隔でいまだ追従している。
 リースさんもスピードは出して引き離そうとするが、喰らいついて来ているのだ。
 もとより、まわりには他の車もいるので、そうそう無茶な追い越しも出来ない。
 だが、無限に続くように見えた鬼ごっこにも、終わりが来た。
 いままでは常に一台は挟んでの対峙だったが、相手の車が上手く追い抜き、すぐ後ろにつけてきたのだ。ベージュ色の車体がすぐ後ろに迫る。
 近づいてきたので、座席がよく見えるようになる。
 助手席に座っている人は首をうなだれるようにして座っており、表情はもとより、意識があるのかどうかも怪しい。
 そして、接近してわかったが、実は運転席に人がいないわけではなかった。
 腰から上を横に倒していたのでいないように見えただけだった。
 もちろん、ハンドルには手がかかっていない。ひとりでにハンドルは動いているようだ。かなりシュールな光景だ。
 リースさんは軽く舌打ちして、すぐさま距離を引き離そうとする。
――が、向こうのほうの反応が早かったようだ。
 最初に感じたのは、ずぐん、という頭の中に響いた音だった。
 なんの音だろう、と思った瞬間、それは来た。そして突然、視界が黒一色に染まる。

『いた痛い叩いたイ痛痛痛痛。助け助テ足アシ脚が熱いアツイ熱い死にたくないた死にたくないシニタクナイ、今日は早く帰るってさっき電話なのになんでわたしはどうしてからだが動かない助けてだれかたすけていやだいやだやだいやだいやだだれか誰か誰か誰か誰か誰かだれかだれか寂しい淋しいさみしいつめたい冷たいつめたいつめたいひとりはいやママママオアカサン暗いくらいくらいよだれかいっしょにいてよあたたかくあたかかい体からだからだカラダからだからだカラだからだからだか体だから体からだからだだじゆうにうごく欲しいほしいホシイほしい欲しいからだからだからだからだ寄越せヨコセヨコセよこせよこせよこせ…………その体を寄越せ!』

 ひゅう、と喉のおくから何かが競りあがり、意識が薄れようととした瞬間、声は消えた。同時に音と光が戻った。現実が一気に広がる。
『空音! 空音! 聞こえますか?』
「……あ、鈴華
 切羽詰まったような鈴華の声にまだ虚ろな調子なのが自分でわかる返事をする。
『――申し訳ありません、遮断が遅れました』
「ううん、ありがと」
 あはは、きっつ……ぶり返した吐き気を押さえ込むように口元に手を当てる。
 久しぶりにああいうのに中てられたな、と思った。
 わたしの開いているチャンネルに思念を直接流し込まれた。
 まだぞわぞわ、とした感触が頭に残っている。
 大きく深呼吸。心を落ち着ける。ああ、実に清々しくない気分だ。やっぱりまだあの時のことを思い出す。まあ、おかげで気合は入った。
「先輩、大丈夫ですか……?」
 優羅が気遣わしげにこちらを伺う。
 前部座席にいたためか、今の影響は受けていないようだ。
 自分でも顔色は良くないのはわかっていたが、大丈夫、と笑顔で返す。
 バックミラーを確認すると、再び距離が開いていた。
鈴華、今何があったの?」
 わたしは後ろの車をバックミラー越しに見据えながら鈴華に問う。
『はい、至近まで接近した後ろの車から、悪霊の一部がこちらに向けて広がってきました。後部座席にいた私と空音が巻き込まれる形に』
「ごめん、私のミスだわ」
 リースさんが渋い表情でそう謝罪する。
「いえ、お気になさらずに。で、鈴華。どうだった?」
『はい、どうやら怨霊の集合体とも言うべき存在のようです。それが……どうもその普通の悪霊の類とは少し、その感触が違うというか……何か呪術的な臭いがしました』
「ふうん、人工的な、っていうこと?」
『はい、少なくともとても自然発生的なものとはとても思えません』
「少なくとも、さっきのトンネルのやつを吸収してるのは確かだと思う。声に聞き覚えのあるのが混じってたから」
『なるほど、だとすると次は私たちというわけですね』
「うわ、先輩のスイッチが入っちゃってます……」
 優羅が小さく呟いたのが聞こえる。
「スイッチ? 確かに何か雰囲気が違うけど……」
 リースさんもハンドルを切りながら小声で優羅に聞き返している。
「和真先輩がいうには、極限状態になるとモードが切り替わるらしいんですよ、そのう、攻撃的というかなんというか」
「なるほど、そういう体質なのね……複雑ね」
 いや、二人とも声を潜めても聞こえてるんだけど。ちなみにわたし本人はそう変化があるとは思っていない。思考が少しシャープになっているような気はするけど。
「でも、鈴華の話からするとやっぱり……そうね、好き嫌いを言ってる場合じゃないか」
 そう言ってリースさんは携帯電話スタンドの携帯電話を取り、アドレスを呼び出し始めた。目当てのアドレスを発見したのか、リースさんは耳に携帯を当てる。
「もしもし、こちら乙−ハ−21のリース=シューヒロイデン=大宮」
 そして相手の返事を待たずにハンズフリーにしてからスタンドに戻す。
『……認しました。どうされました?』
 若い女の声が車内に響く。
「現在、名神高速を走行中。何か悪霊らしきものに追尾をくらってるんだけど、もしかしてそっちでなにか心当たりがあるんじゃないかしら?」
 しばらく、沈黙が流れる。
『……現在位置を。すぐに対処に向かわせます』
 返ってきたのはそんな答えだった。
 リースさんの綺麗な眉がしかめられる。
「現在位置は小牧を過ぎた所よ。それより質問に答えたらどう? 中央道で事故ってたトラックの運送会社ってそっちがよく使ってる会社でしょう? 通った時に妙な感じもしたし、知らないとは言わせないわよ」
 カーナビを見て現在位置を確認した後、リースさんは電話の相手をそう問い詰める。どうやら電話先は、先ほど話題に出た対魔機関のようだ。
『……バビロニアの呪物を輸送中のトラックが事故に逢ったのは事実です。報告では呪物自体が破損しており、現在調査チームが現場に赴き、周辺を探索中です』
 今度は先ほどより短い沈黙の後、事務的な口調で答えがある。
「出自はどうでもいいわ。あれは何なのか教えてくれると嬉しいんだけど」
『担当者に代わります。とりあえず現状を維持してください』
 車内に保留音が流れる。
「もう、これだからお役所ってやつは……」
 リースさんが毒づく。
「あのう、もしかしてこれって、とばっちりっていいますか?」
 優羅がはた、と気づいたような調子でそう言った。
「そう言うと身も蓋もないから、不幸な事故とでも言っといたら?」
 わたしは状況に似合わない陽気な保留音を耳にしながら、とりあえずそうツッコミを入れた。