4話 ハイウェイの澱 -8-


悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。(ルカ 8:33)

                         ◆

「なんでこう、しつこいんですか、ねっ!」
「知らないわよ、狗だから猟犬よろしく執念深く狙っ、た獲物は逃がさないんじゃない、のっ!」
 わたしと優羅の言葉の区切りがおかしいのは、公園内の道なき道を走っているからだ。段差を乗り越えるたびに、車が上下に揺れ、言葉が乱れる。
 オフロードを走るようには出来ていないはずなのに、新車ということもあるのだろうか、スポーツカーはかなりの走破性能を見せている。
「で、どっちに向かえばいいんですかっ!」
「とりあえず公園から出ましょう、囲まれたらアウトだし」
 バキバキ、と枯れ葉を少し残した木々を押し分けるように掻き分け、優羅は出口に向かって進路をとる。
 タイヤが砂利の混じる地面を噛み、ゴリゴリと音を立てる。
 ブゥン、とエンジンが一度大きく唸り、一直線にここに来るときに使った入り口を目指す。
 探せば他の出口もあるのだろうが、そんな余裕はなさそうだし、そこから車が出られるとも限らないからだ。
「きたきたきたっ」
 バックミラーに映るのは、日が沈んで暗くなりつつある景色に紛れるようにして、こちらに迫る数匹の狗達。
「先輩、右左どっちが好きですかっ」
「強いて言えば右」
 優羅は左右の確認もせずに、公園入口から飛び出すと、わたしの答えに従うように急角度で右折する。
 一拍開けて、公園から数匹の狗が飛び出してくる。
 狗達はわたしたちを見失ったのかほんの一瞬だけ、戸惑うように左右に首を巡らせる。
 が、すぐにこちらを発見したようで、再び追撃を開始した。
 その様子をわたしは注意深く観察して思考する。
 探索能力が落ちてる? ……確かになんとなく動きにも精彩がない気もするけど、さっきの結界の影響かな。
 それなら無理な注文だと思ってたけど、逃げられなくもないかもしれない。
「優羅、なるべく曲がれるところは曲がって逃げてみて」
「でも、この辺の地理とか全然わかりませんし、もし行き止まりに突き当たったら、目も当てられないですよ!?」
 わたしは、カーナビのスイッチを入れ、まだ死んでいることを確かめると、慌てず騒がず助手席のボックスを探ってロードマップを取り出した。
「……先輩そんな悠長な」
「GO」
 わたしは努めて明るく言った。

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 結局の所、この『曲がれる所は曲がってしまおう作戦』はそれなりに有効だった。
 ヒヤリとする場面(パッと見たところ行き止まりの路地とか)はあったものの思った以上に順調に逃げられている。
 ここで言う順調というのは、一度も車に接触されていない、という意味である。
 つまり、綺麗に狗達を撒けたというわけではなく、しっかりと現在も追尾されている。
 リースさんがいない今、防御力は皆無に等しい。要するに、一匹でも取り付かれたら終わりというわけだ。何ともありがたくない話だと思う。
 ちらりと時計を確認。まだ6分しか経っていない。
「優羅、次、左――」
「あ、はい――え?」
 次の曲がり角が見えたので、わたしは方向を指示する。
 優羅は、素直に頷いたあと、疑問の声を上げ、曲がらずにそのまま直進した。
「ちょ、なんで真っ直ぐ――」
「先輩、鈴華さんが、分散したって」
 分散って?、と聞くまでもなく、左折するはずだった道から2匹の狗が飛び出してきた。
 あのまま曲がっていたら鉢合わせしていた所だ。
 まずい。こちらに反撃する手段がないことを悟ったのか、追い込みにかかってきた。
 逃げる獲物は、追い込んでから仕留めるということなのだろう。
 鈴華の感知がある分まだこちらにアドバンテージはあるが、このまま囲まれるとジリ貧だ。
 ああくそ、どうにも頭が上手く働いていない。どうにも能力を封印したままだといつもより思考力が落ちている気がする。
 ――戻すかな。数自体は減っているはずだし、戻しても問題ないだろう。
 戻すのは実は簡単だ。深呼吸を一回するだけで、すぐに世界に音が戻ってくる。
 それと同時に頭がクリアに、というかいつもの通りになる。
「よし。じゃ、まあ気合いれていきますか」
『こちらを囲むように分散しています、一つ一つはそうたいした数ではないですが――』
 鈴華の声もしっかり聞こえる。
 ほんの少しの間耳にしなかっただけなのに懐かしく感じるのは我ながらセンチに過ぎると思うけど。
『――このままでは、追い込まれます。こうなれば取るべき手段は一つです。今度、接近された時に、私を窓から放り投げて下さい』
「――そんな」
 鈴華が真剣な口調で言い、優羅は息を呑む。
『餌が欲しいのならくれてやればいいんです。それで逃げ切れるでしょう』
「死んでもお断り」
 わたしは鈴華が更に言葉を続ける前に、一言の下に斬って捨てた。
『――空音、聞いていたのですか……というより』
 鈴華がしまった、と言った
「聞いていたのですかじゃないわよ、この自己犠牲マニア付喪神。あんまりふざけたこと言ってると油性マジックで額に三日月を描くわよ」
 もちろん、鏡に額があるわけはない。ただの比喩表現である。
『空音、私は真剣に――』
「わたしも大真面目で言ってるんだけど」
 鈴華はバッグを抱え直すわたしを見て、言い争っても無駄だというのを悟ったのか、大きく溜息を吐いた。
 鈴華を犠牲にして生き延びるという選択肢はわたしの中に存在しない。決して。
 ――まあそれはいいとして、である。
 この状況をどうにかする策が思い浮かんでこない。
 このままだと三人とも鈴華の言う通り、遅かれ早かれ餌になってしまうだろう。
 望みはないこともない、とは思うのだけれど、果たしてそれまで持つかというのが問題だった。
 突然、バン、とすぐ上から実に嫌な音がした。
 思わず優羅と顔を見合わせる。
 上に跳び乗られた。
 足音から察するに一匹だけのようだが、その足音は屋根を歩いて助手席のすぐ上で止まる。
 そしてドアのない助手席の窓部分から覗かせた禍々しい青い目と、わたしの目がばっちり合った。
 時間にして、一秒か二秒といったところだろう。
 当然の行動として、次の瞬間狗はあんぐりと大口を開けてこちらに襲い掛かろうとする。
 その刹那、狗は前方から迫って来たコンクリートのブロック塀の角の部分に胴体を激しく打ち付けられ、体をクの字に折り曲げながら車から転落、地面に転がっていった。
 い、今のはかなり危なかった。流石に肝が冷えたぞ。
 見事なハンドル捌きを見せた優羅にお礼を言おうと隣を見ると、優羅自身も今の動きにびっくりしているみたいだった。
 ……どうやら今のは本当に危なかったらしい。
 時間はどれくらい経ったかな、時計を確認しようとし前を向いたら、フロントガラスのど真ん中に、涎をたらさんばかりの狗が一匹へばりついていた。
 そして、狗はフロントガラスに向けて体当たりを始めた。
 三撃目でピキ、と薄く放射状に皹が入った。さすがに顔を引きつるのが自分でもわかった。
「こんのっ!」
 優羅は右に左に車体を揺らし、目の前にへばりついた狗を車から振り落とそうと試みる。
 しかし、なかなかしぶとく狗は、ボンネットに爪を立て、フロントガラスに体当たりを繰り返す。
 皹が大きくなる。
 車は左矢印と、『300m先浄水場』、と描かれた看板の脇を駆け抜け、琵琶湖の湖岸に近づいていく。
 道路脇からもう琵琶湖の湖面が見えるほどに近くまでやってきた。
 湖岸近くの自然公園のような木々が残っているそばの道路を狗をフロントガラスに貼り付けたまま車は疾走する。
『前からニ匹、左の道から一匹来ます!』
 鈴華の叫ぶような警告。
 まずい、完全に進路を塞がれた。どっちに行っても狗にぶちあたる。
 優羅は顔をしかめると、腹をくくったように深呼吸をひとつ。
「先輩、頭下げてくださいね」
「頭ってちょっとまさか」
 わたしが静止する間もなく、優羅は琵琶湖の方向にハンドルを切ると、そのまま湖面に向かって段差を駆け下りた。
 ガクンガクンガクン、と車体がひっくり返らないのがおかしい段差を一気に駆け下りる。
 車が上下に揺れる衝撃で、へばりついていた狗は空中に放り上げられ、ようやく車体からこぼれ落ちる。
 しかし、度重なる体当たりのせいで、フロントガラスは微細なひびで真っ白に染まり、前がよく見えない。
 それでもなんとか段差を抜けられた、と思った時、後ろでパン! という甲高い音がして、車体が大きく振れる。
 そしてそのまま、悲鳴を上げる間もなく、目の前に突如現われた木に激突した。
 
                         ◆

 ガラスの割れる派手な音と同時に体が前に投げ出され――丸くて柔らかいものに受け止められた。パラパラ、と上からガラスの細かい破片が降ってくる。
 一瞬、息が止まるような強い衝撃を受けたけど、幸いにも体に痛みは感じなかった。
 上手い具合にエアバッグが衝撃を吸収してくれたようだ。
 細かいガラス片に気をつけながら、エアバックに挟まれたままシートベルをなんとか外す。
 助手席からなんとか這い出して、優羅の様子を伺う。
 優羅はエアバッグに挟まれたまま、ぐったりとしていた。
 爪先から頭頂部まで寒気が駆け抜ける。心臓を鷲掴みにされたように鼓動が凍る。
 ――わたしは、またなのか。わたしはまた、
『空音、気を失っているだけです。しっかりしてください!』
 鈴華の言葉で一気に目が醒めた。
 そうだ、やるべきことをやらないと。まだ何も終わっていない。
 生き延びるために、最善手を模索しろ。
 まず運転席のドアを開け、優羅の様子を伺う。ぐったりとはしているけど、呼吸は正常。シートベルトを四苦八苦して外し、車外へ引きずり出す。優羅の小さい体は想像していたより軽かった。額をガラス片で切ったのかそこから出血している意外は目立った外傷はない。
 あまり時間はない。急げ急げ急げ。
 鈴華の入ったバッグを肩にかけ、意識のない優羅を引きずるようにして歩き始める。
 わたしは女性の十七歳の平均よりは身長は高いとはいえ、優羅を抱えていてはあまりスピードは出ない。それでも優羅が小柄で助かった。
『空音、私は置いていってください! 早く!』
 鈴華の悲鳴のような声を完全に無視する。
 それよりやっておかなければならないことがある。移動手段がなくなったことはちょうどいいと言えばちょうど良かった。
 車から離れるように琵琶湖に足を進めながら、わたしは意識を研ぎ澄まして、今まで使ったことのある、他者とのコミュニケーションルートを片っ端から開いていく。
 実を言えば、会話する相手がいない状態でこれをやるのはかなりの負担なんだけど、この際仕方が無い。
 この辺は自然が多いみたいだし、木々や動物達がが声を運んでくれるといいんだけど。
 準備完了。大きく深呼吸すると、最大限の出力で叫んだ。
 次の瞬間、あたりの木々から一斉に鳥達が羽ばたいて空へ飛んで行った。
『――っ、空音、あなた』
 鈴華の驚いたような声。
 鈴華は突然耳元で怒鳴られたようなような気分だろう。悪いことしちゃったな、と思う。
 これでわたしに打てる手は全部打った。あとは逃げるだけかな。
『――なるほど、いい手です。しかし、今の声はもちろんレギオンにも聞こえています……すぐにここに来るでしょう。今からでも遅くはありません。私を――いえ、私と優羅様を置いてあなただけ逃げて下さい。それであなたはまず間違いなく助かります』
 わたしは返事をしない。
『気づいていないとは言わせませんよ。今回の件に限って言えば、いつもの通り星の巡りが悪いあなたではなく、狙われているのは霊力のある、私と優羅様です。あなたなど初めから眼中にない確率が極めて高い。空音、このままでは三人とも狗共の餌です。あなただけでも生き延びるべきです』
鈴華。それはね、裏切りって言うの」
 わたしは静かにそれだけ言った。ちなみに裏切りというのは優羅や鈴華に対する裏切りではなく、自分自身に対する裏切りという意味だ。
 坂下空音はそれを容認するとこはできない。
「わかりきっていることでも説得してみるのは、鈴華の悪い癖だと思う」
『そうですね、あなたの頑固さはお手上げです。白旗を振りましょう』
「悪いけど最後まで付き合ってもらうから」
『そんなのは当たり前です』
 以心伝心。
 ま、物心ついた時からわたしの傍に鈴華はいたのだから、当たり前のような気はするけど。
 琵琶湖の岸まであと十数歩というところでわたしは足を止め、琵琶湖に背を向ける。
『空音、言うまでも無いと思いますが――』
「うん、囲まれてるって言うんでしょ」
 夕日の最後のオレンジの欠片が地平線に沈み、夜が訪れようとする湖畔。
 宵闇から滲み出るようにして現われたのは十数匹の禍々しい黒犬。
 いよいよ追い詰めた獲物を吟味するように、じりじりとわたしたちを囲うようにを行ったり来たりしている。
「ま、そう都合よくは間に合わないか」
 円をじりじりと狭めてくる狗たちを見て、わたしは達観したようにそう呟く。
『……困りました。適切なお別れの言葉が浮かびません』
「別にわたしは気にしないけど、優羅には悪いことしたと心底思ってる」
 支えている優羅の体温を感じながら、こういう呑気な会話が実にわたしたちらしいな、と思う。
 ふと、わたしが死んだら和真はどう思うだろうか。泣く……のはあんまり想像できない。普通に焼香とかをあげてそうだ、と思って苦笑する。
 さて、緊張もほぐれたことだし、まあみっともなく足掻くかな、と思う。
 まあ出来ることなら、目に指くらいは突っ込んでやろう。
 わたしがそうして覚悟を決めた時、遠くの空から無数の羽ばたきが聞こえた。
 どうやら相変わらずわたしは、ギリギリの所で運が良いみたいだ。
 星が瞬き始めた夜空に、無数の――無数の蝙蝠が。
 蝙蝠たちはそのままこちらにむけて急降下。
 狗達の間をぐるぐると牽制するように動き回り――わたしたちの目の前で、ぐるぐると渦を巻く。
 そして全ての蝙蝠が集まって人型を形作る。
 蝙蝠たちは溶け合うように消滅し―――そして後には、古めかしいマントに身を包んだ、綺麗なブロンドの男性が現われる。
「やあ、お待たせしたね、お嬢さん方。後は任せてくれたまえ」
 リースさんの父にして、吸血鬼、エルク=シューヒライデンさんは力強い声でそう宣言した。

                        ◆


 全身から力が抜けたように思わずその場にへたり込みそうになる。
 知らず知らずのうちに緊張していたらしい。
 視線をエルクさんと狗達に移す。
「さて、ずいぶんと私の友人達をいたぶってくれたようだな。―――犬畜生の分際で」
 ゾクリ、とひとりでに体が震えた。わたしが今までに聞いたことのないような昏い声だった。
 エルクさんは随分と古い型のスーツと、マントに身を固め、狗達を視線で威圧する。
 狗達もエルクさんを敵と認識したのか、グルルルル、と唸り声を上げている。
「ほう、私に歯向かうのかね? ……面白い。捻り潰してあげよう」
 エルクさんは腕を一振りすると、どこからともなく、これまた古そうなステッキを取り出した。
 狗たちが一斉にエルクさんに襲い掛かり、襲い掛かった全てエルクさんに触れることも出来ずに弾き飛ばされた。
「じつにつまらん、この程度か」
 ヒュン、とエルクさんはステッキを一振り。
 どうやら襲い掛かってくる狗達を全部、ステッキ一本で叩きのめしたようだが、正直なところ、わたしにはエルクさんの手の動きが全く見えなかった。
 次元が違いすぎる。
「まあしかし、しぶとそうではあるな」
 エルクさんの言の通り、弾き飛ばされた狗たちは再び身を起こし、エルクさんに向かって威嚇の声を上げている。
 と、狗達の体が泡立ち、黒い体からさらにもう一頭の狗が飛び出るように出現する。
 それは全ての狗達に連鎖的に起こり、あっという間に狗達は倍の数に達した。
「ほう、面白い。レギオンの名の通り数で押すか」
 エルクさんは余裕ありげにそう言うと、不敵に笑う。
「では、こちらも数で対抗することにしよう」
 パチン、と指を鳴らす。
 すると背後で激しい水柱が上がった。後ろに上がった水柱は四つ。
 そして四つの水柱が消えた後には、四人のエルクさんの姿があった。
 四人のエルクさんの分身は湖面を滑るように移動し、各々狗達に襲い掛かった。
 狗達も牙や爪で対抗しようとするが、元が水だ。牙も爪も効果がない。
 それどころか、エルクさんの分身に触れた狗は、毒にでも触れたかのように地面にバタバタとのた打ち回る。
「ふむ、本当にしぶといな。いいだろう、聖書の通りしてカタをつけよう。お嬢さんがたをあまり放っておくわけにもかんしな」
 エルクさんはサッ、と手を振るとエルクさんの分身はのた打ち回る狗達を摘み上げ、一箇所に団子のように纏めてしまう。
『ここまでとは……』
 鈴華が畏怖すら滲ませた声音で呟く。
 わたしも目をぱちくりしてその様子を眺めるしかなかった。
 そしてエルクさんはその塊を軽々と超常の力で持ち上げると、湖に向かって思いっきり投げ込んだ。
 一直線に投げ込まれた黒い塊は斜めに水面に突き刺さり、巨大な水柱を上げる。
 エルクさんが仕上げとばかりに指を鳴らすと、水中で何かが爆発したかのように、再び巨大な水柱が上り、湖に静寂が戻った。
「やあ、空音にミス鈴華、怪我はないかね」
 エルクさんはつまらなそうにそれを一瞥したあと、わたしに向かって人懐っこい笑顔で話し掛けてくる。
「えーっとまあ、おかげさまで。でも、この娘が頭を打ったみたいで」
 あまりの雰囲気の変わりように、一瞬呆然となったが、とりあえず優羅が心配だったのでそう言った。
「なに!? それはいかん、すぐに病院へ連れて行こう」
 エルクさんは大袈裟なほどに表情を変えて、あたふたし始めた。
 その様子はとてもさっきまとは違っていて、わたしは少し可笑しくなってしまった。
 エルクさんの肩越しに見える月は、思わず目を奪われるほどに綺麗な三日月だった。

                         ◆

 肉の焼ける美味しそうな臭いが鼻をくすぐる。
「で、事後処理とかその辺はどうなってるの」
 事件から一日後の夕方。
 わたしは神戸のステーキハウスで和真と向かい合ってステーキを食べていた。
 昨日は念のため病院で一晩過ごして、今日神戸に移動してきたのだ。
 他のテーブルには優羅やリースさん親子の姿がある。
 結局、優羅の怪我はあれから担ぎ込まれた病院での精密検査したところ、特に異常はなかった。額の怪我も絆創膏一つで済んで、痕も残らないそうだ。なによりである。
「あー、まあ今回は向こうの完璧な落ち度だからな。噂ではお前の実家からかなりの突き上げもあったらしいぞ」
 和真は肉を綺麗に切り分けながらそう、声を潜めて言う。
「いや、そういう責任云々じゃなくってさ。死者何人くらいとか、被害とかそういうの」
 ああ、と和真は得心したように呟くと、言葉を続ける。
「死者は6人だ。驚くほど少ない。重軽傷者はまあ優に十倍近くは出てるが。当たり前だが、報道は交通事故というだけだ。実際まあそうなんだしな」
 個人的には多いよ、と言いたくなったが、事件の規模からすると奇跡的な数値なのだろう。
 まあ優羅の能力で事故った車からは死者がでるはずはないので、そのくらいかなとは思っていたのだが。
 ちなみになぜ和真と向かい合わせてご飯を食べてるかというと、優羅とリースさんが、『……あとは若い二人に』などという血迷った目論見でこうなっている。
 ステーキを切り分けようとナイフとフォークを操るが、どうにも指が一本使えないとなかなか食べにくい。
 わたしのほうは五体満足――と思っていたのだが、右足の腿を打ち身、左手中指が気が付いたらざっくり切れていた。
 多分ガラスで切ったのだろう。まあさほど深く切ったわけでもないのでそんなに気にしてはいない。打ち身に至っては多少青アザが出来た程度である。
「だいたい、なんだってあんな危険なものをトラックなんかで普通に運んでたわけ?」
 つけあわせの野菜を和真の皿から奪いながら、わたしは素朴な疑問を述べる。
「まあこれも確証のある話ではないんだが、普通に運んではいなかったらしい。護衛はしっかりついていたらしいぞ」
「……その護衛さんはどうしたの」
「行方不明だ」
「あら、お気の毒……それって単純に護衛が足りなかったんじゃないの?」
 野菜の変わりに肉を和真の皿にトレードしながら、わたしは素直に感想を述べる。
「別に気の毒じゃないぞ。行方不明で死体は出ていない」
 ん? その言い回しは……
「……もしかして、内紛とかなわけ?」
「言ったろ、向こうの完璧な落ち度だって」
 なるほど。
「ところで、坂下、ステーキ食べに来てなんでさっぱり肉を食べてないんだ。神戸牛だぞ?」
「あのね、こんな脂っこいのそんなに食べれないって、優羅じゃあるまいし。はい、これもあげる」
 さらに切りわけた肉を和真の皿に移す。
 そもそも、優羅と同じ量を食べられると思ったわたしが浅はかでした。
 それに肉の味がついた野菜は結構おいしいと個人的に思う。
「しっかし、我ながらまともな旅行はできないのかと思うわよもう……」
 半ば本気で溜息をつく。わたしが旅行自体が本質的には好きなほうだというのがまた始末に悪い。
「結果だけを考えれば、慰謝料を分捕って優雅な神戸旅行が出来ると思うしかないだろうな、この場合」
 和真はそう軽口を叩く。
 確かに、対魔機関からはちょっとびっくりするくらいのお金を貰ったけど。
「平穏を買うほうが高そう……ちょっと和真、何もあげた肉をわたしの皿に戻すことはないでしょう」
「だめだ、もうちょっとは食べろ。ま、何にせよ、無事で何よりだ」
 最後の台詞は本当に心配してくれていたのが分かったので、
「……どういたしまして」
と小声で返事をした。