4話 ハイウェイの澱 -7-


ところで、その辺りの山で豚の大群が餌をあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。(マルコ:5:11〜12)


                         ◆

 皆さんは『偶然』について考えたことがあるだろうか。
 『偶然』は日常のどこにでも転がっている。たとえば、信号が連続して青信号だったり、並んでいた列が他の列より素早くはけたり、振ったサイコロが連続していい目だったり、買ったアイスが当たりだったり、落とした財布が無傷で返ってきたり。
 え、例がいい例ばっかりだって? ――いいのだ、こういう日常のちょっとした幸運が『偶然』によって引き起こされているということを理解していただければ。
 そう、大げさな言い方をすれば世界は無数の偶然の連鎖によって成り立っている。
 そして、彼女――三ノ宮優羅の能力は、偶然を支配すると言ってもいい、極めて強力な能力である。
 Top of fetal 1min.―――運命の頂点にただ一人。
 ただの1分間だけではあるが――世界は彼女の前に跪く。

                       ◆

 全てがゆっくり流れる灰色の時間の中で、能力を発動させた優羅だけは色鮮やかな水彩画のように、くっきりと浮かび上がるように動く。
 分離帯を乗り越えてこちらに迫って来るトラックの巨体に対して、優羅がとった行動は、ブレーキを思いっきり踏むというものだった。
 高速で走行している車に急制動をかけるとどうなるか。
 結果は決まっている。車体はバランスを失って横滑りするのだ。
 肺から空気が押し出されるような勢いでガクン、とスピードを落とした車体は、高速でスピンを開始する。
 グン、とすべてをなぎ払うような横方向のベクトル。凄まじい速度で、窓の外の景色が回転し、高速道路に黒いタイヤの爪痕を刻む。
 車体にへばりついていた黒い狗達が、次々と振り落とされていく。
 優羅はというと、車体が高速で回転していることなどまるで感じていない様子で、
 ハンドルをどこでどう切れば、壁にぶつからずに済むかをあらかじめ知っているかのような淀みのない動き。両手が稲妻のように閃く。
 そして、目の前に壁が迫っているにも関わらず、何のためらいもなく再びアクセルを踏んだ。
 スピードを落としていた車体が壁に向かって突っ込む――直前で斜めに滑った。
 そのまま高速道路を氷の上のように車体は斜めのまま滑る。
 そして、滑っている車の鼻先を、反対車線からの突っ込んできたトラックの車体が掠めていった。
 回避成功。
 トラックはそのまま後ろの車に衝突、すさまじい音を響かせる。
 トラックは乗り上げるように後続の車のボンネットを踏み潰し、そのままひっくり返るようにして壁に激突。火花を上げて高速道路に屍を晒した。
 その車体から一瞬炎が吹き出し、、黒い煙がブスブスと上がる。
 優羅は横滑りしている車体を立て直すべく、クラッチを流れるような動作で切り替え、車を水平に戻すと、後ろで起きている事象がなんでもなかったかのように、そのまま加速に移った。
「……十五。リースさん大丈夫ですか?」
 優羅の能力――1分間だけ、偶然という名の世界の理を望みどおりにする――平たく言えば、『果てしなく運が良くなる』力を使った彼女は、冷静に車上のリースさんに尋ねた。
「信じられない、生きてるし落ちてないわ……」
 一拍置いて、窓から力なく顔をだしたリースさんは呆然とそう呟いた。
「よかった、リースさんは正直、ちょっと不安だったんですよね……」
 この能力の真に強力なところは、幸運の定義が『優羅本人が幸運に感じること』というのに尽きる。
 つまり、彼女が望むように世界は変容するのだ。
 もちろん、何でも思うままになる、というわけにはいかないようだけど。
 優羅の心配は、会ったばかりのリースさんが、その幸運の範囲に含まれているのかどうかという心配だろう。
「車は減りましたけど、ワンちゃんは増えましたね……三十」
 優羅はバックミラーを眺めながらそう何気なく呟く。
 確かに優羅の言う通り、先ほどのトラックが進路を遮る形になったため、わたしたちを追いかけてくる車はもう殆ど残っていない。
 しかし、黒い狗たちだけはネズミ算式に数を増やしていた。
「ぞろぞろ、ぞろぞろと……」
 リースさんが忌々しげに呟く。
「リースさん、この車どうせ修理に出すんですよね」
 優羅が突然そう質問を発する。
「え、ええ。まあ……そうなるでしょうね」
「じゃあ、すみませんが……」
 意表を突かれたように答えるリースさんに、優羅はそう断ると、左足を伸ばして、助手席側のドアを三回、ガンガンガンと強く蹴った。
 すると、驚くべきことにドアが外れた。
 助手席のドアそのものが車から分離したのだ。
「……え?」
 リースさんが理解不能、という感じで声を上げる。
 そう、いくら先ほどぶつけられた部分とはいえ、車のドアは足で蹴ったぐらいでは外れる訳が無い。――普通なら。
 外れたドアはそのまま縦に回転しながら、一度も横倒しになることなく高速道路を進む。一体目の狗に激突。
 そのまま斜めに転がり、ニ体目の狗を切り裂くように巻き込むと、残っていた車に激突、タイヤの間に潜り込むようにドアが刺さる。
 ドアを巻き込む形になった一台目の車がスピン。後続の車にぶち当たる。さらにその車はそのまた後ろに――そうして連鎖反応を起こすようにして、残っていた車が次々と沈黙していく。
 そうして、動かなくなった車の山で、高速道路は完全に全車線が塞がれてしまった。
 わたしとリースさんはその様子をぽかん、とした顔で眺めていた。
「……六十。これで私は完全に役立たずです」
 そう申し訳なさそうに言う優羅に、私とリースさんは二人して、そんなことないない、と首を振った。

                        ◆  

 夕日が目に眩しい。
 茜色の太陽は地平線間際でその身を大きくしている。
 ……などと現実逃避している場合ではないのだけど、後ろを見るととげんなりするので自然の美しさを堪能でもしていないとやっていられない。
 狗の数は増え続けて、数十匹。高速道路に黒い河を作るほどになっている。
 ガチガチと牙を打ち鳴らす音がここまで聞こえてきそうだ。
 まあでも、もうすぐ出口だ。高速道路での長い追いかけっこももうすぐ終わる。
「先輩、ちょっと景気付けに曲かけてもいいですか? ちょっと肌寒いですし」
 優羅は楽しそうにそう言って、わたしの返事を待たずにMDをセットする。
 まあドアが一箇所ないからね。暖房を入れていても少し寒いのは仕方ないと思う。
 何を掛けるんだろう、と耳を澄ませていると、ボリュームを上げたスピーカーから軽快なイントロが……ってこれDeep Purpleの『Highway star』……いや、そのぴったり、ぴったりだけど。
「優羅、もうすぐ高速から降りるんじゃ……」
 わたしの自分でもどうでもいいと思うツッコミを無視して、優羅は口笛を吹いてノリノリだった。
「もしかして、優羅てハンドル握ると人格が変わるタイプの人?」
 あまりにも楽しげなので思わずそう聞いてしまった。
「やだなあ先輩、そんな漫画みたいなことあるわけないじゃないですか」
 弾けるような笑顔が逆に怖い。サビにあわせて歌ってるし。
「んじゃ、行きますよー」
 優羅は実に楽しげにそう言うと、大胆なハンドル捌きで滑り込むように出口に進路をとる。
 勢いにのった車体が分岐に向かってスピードを落とさずに突進する。
 音楽に合わせるようにしてクラッチを切り替え、軽々とカーブを曲がる。
 スピードを出しすぎているためか、車体が高速の壁ギリギリを過ぎ去る。 
 実に心臓に悪い。カーブで若干スピードが落ちたため、狗の群れは距離を詰めてきている。まだ執拗にわたしたちを狙ってくれているようだ。一斉に出口に殺到している。
「ようやく降りれるわね。まあようやく向こうの態勢も整ってきたみたいだし、もうひと踏ん張りかしら」
「態勢?」
 リースさんは上を指差す。
 見ると、茜色の空に一台のヘリが舞っていた。
「機関のヘリよ。ま、現状把握ってところでしょうけど」
「あ、ところで料金所ですけど――」
 優羅が呑気に聞く。あきらかに悠長に料金を払っている場合ではないと思うんだけど。
「突っ切るしかないでしょう。ETC(有料道路自動料金支払いシステム)は導入してないし」
 リースさんも当然そう答える。どうでもいいですけど、ETCでもこれだけのスピードでは反応しないと思いますが。
「でも、車詰まってたら空いているETCを突っ切るしかないですねえ」
「それは大丈夫。多分もう交通規制が掛かってるから空いているはずよ」
 リースさんの言うとおり、見えてきた料金所に車の影は見えない。
「わ、ほんとだ、んじゃ遠慮なく」
 優羅は楽しげにアクセルを踏みこむ。
 そしてあっという間に料金所を通り過ぎた。ちなみに料金所の中には避難したのか、人影は見当たらなかった。
「ところで、ここからどう行けばいいんですか? 私、全然道なんてわかんないですけど」
 後ろを見ると料金所の屋根近くまで溢れ返った狗たちが、黒い濁流となって高速道路から溢れ出してくる。
 もはや数えるのが馬鹿らしいくらいの数になっている。
「乾燥わかめみたいな増え方……」
「先輩のたとえはなんというか独創的ですよね……あれ、交通規制みたいですけど」
 思わず呟くと、優羅が呆れたように返事をしてきた。
 いいじゃないか、そう思ったんだから。とつぜんどばっと増えるあたり似ていると思う。
 それはともかく、たしかに、料金所を降りた直後から車の姿が見当たらない。
「流石、手回しが早いわね。ご苦労なことだわ」
 進行方向に見える三方が封鎖された交差点で、蛍光色の棒ををぐるぐると振って右へ曲がるように誘導をする人影が見える。手回し、というのはこの事らしい。
「優羅、あの誘導に従って」
「そ、それはいいですけど、あの人大丈夫なんですか!?」
「大丈夫よ、機関の職員はそんなにやわじゃないわ。あ、そうそうスピード落とさなくていいわよ。私がなんとかするから、そのままの速度で曲がって」
 リースさんはさらりと、とんでもないことを言う。
「いくらなんでも、ちょっとはスピード落とさないと曲がりきれませんよ!?」
「いいから、いいから」
「……優羅、やってみて」
 なんとなくリースさんのやろうとすることが分かってしまったわたしは、そう促がす。
 優羅は、知りませんからね、なんとか努力はしますけど、と呟くと、本当にあまりスピードを落とさずに交差点に突っ込む。
 クラッチを稲妻の如き速さで切り替え、ハリウッド映画もかくや、といった角度でカーブを曲がろうとする。
 が、当然このスピードでは曲がりきれるはずもない。
 交差点からはみ出し――その時、ふわり、と車体の半分が浮いた。
 中のわたしの体も当然、斜めに傾く。
 左半分が浮いて斜めに傾いた車体は、ウィリーの要領で道ギリギリをそのまま片側二輪でカーブを大きく曲がる。
 そして、直線にはいったところで、ゆっくりと四輪全てを地面につけた。
 つまり、そのままならコーナーに激突するところを、リースさんが車を持ち上げて、バランスを取ったのだ。
 はっきり言ってもう無茶苦茶である。
 念動力って応用範囲の広い力なんだなあ……とわたしがしみじみ感心していると(もう常識の範囲を遥かに越えているので感心するしかない)、
「この先も誘導に従ってください! 陣を敷いて一気に仕留めます!」
という叫び声が通り過ぎた交差点から聞こえてきた。
「了解!」
 リースさんは叫び返してそれに答えている。
 誘導の人は、警察官の服装をしていた若い人だったが、察するに対魔機関の人なのだろう。
 後ろから迫り来る狗達をあの人どうするんだろ、と思って後ろを観察していると、なんと彼は走ってその場から逃げているようだった。
 ……すごいのかすごくないのかさっぱりわからないぞ対魔機関。

                       ◆

 気味が悪いくらいにガラガラの道を、赤いスポーツカーが疾走する。信号は全て青。トワイライトゾーンに紛れ込んだように現実感が希薄だ。夕暮れの赤光が斜めに路面を染め上げて、禍々しくも美しい。
 そんな幻想的な光景とは対象的に、後ろからはもはや百ではきかない数にまで増えた狗の群れ。
 もはや黒い暴力と言うべきそれは、目に見える全てを塗りつぶすようにしてこちらに流れてくる。数が増えたためかスピード自体は少し落ちたようで、余裕をもっての逃げることが出来ている。
 時折、ぼこり、と狗の体が瘤のように膨れ上がり、そこからまた黒い狗が顕れる。
 どうやら、もう栄養源がなくとも自己増殖が可能らしい。数が増えるほどにデタラメになっていっている。
「まさしくレギオン、ってわけか……」
 思わず言葉にして呟いていた。
 しかし、ここまで増えてしまったあの狗の群れをどうするんだろう?
 たしか聖書だと――
「ここって琵琶湖の近くなんですね」
 などとわたしが考え込んでいると、優羅の能天気な声で思考から引き戻された。
 確かに道路標識には矢印の下に琵琶湖方面などと書いてあるのが見て取れる。
 そして誘導されているのは、どうやらそちらの方向のようだった。
 湖と聞いてレギオンの顛末を思い出した。偶然か必然か、なかなかおあつらえ向けだ。
「でも豚じゃなくて狗みたいけど、それはいいのかな」
「……空音、あなた結構細かいわね」
 リースさんはそう言うが、結構大事なところではないのだろうか。
 狗達との距離はのんびり会話できるくらいに安定しているものの、引き離せているといった感じはしない。追いつかれれば車ごと呑みこまれてしまうのは確実だ。
「あそこまでになっちゃうと、もう私の手には負えないわね」
 リースさんは所在なさげに窓から頭を逆さに出すと、少し疲れた口調でそう嘆息した。
「それはそうと、優羅って私より運転上手いんじゃない? びっくりしちゃった」
「うーん、どうなんですかねえ、確かに筋はいいと言われましたけど」
 などと呑気に会話をする二人。
 明らにこの人たちは度胸というか神経の配線がおかしいのではなかろうか。
 重ねて言うが、これでも逃走劇の真っ最中である。
 わたしも、もう少し厚着をしてくるんだったなあ、などと考えているので人の事は全く言えないのかも知れないけど。
「さて、そろそろゴールが見えたみたいよ。……ごめんね、とんだ旅行になっちゃって」
 リースさんは逆さのまま申し訳なさそうに言う。
 どうやら、数百メートル先に見える大きな公園が最終目的地点らしい。
 入り口近くにここに来るまでに何度も見た、赤い棒を振り回す人影が見える。
「いえ、おかまいなく。まあ、こんなことになるような気はそこはかとなくしていましたので」
「ほんとに先輩はトラブル誘引体質なんですねえ……あはは、鈴華さんも『もうどうしようもありません』だそうですよ」
 悟りきったようなわたしの発言にそう笑って答える優羅。
「それじゃ、ラストスパートといきますねっ」
 優羅はそう元気よく叫ぶと、公園の入り口で中に入るように誘導する人の前で、ドリフト気味に車体を曲げ、公園内部に勢いよく突入した。
 自然を多く残した公園の中を赤いスポーツカーは矢のように駆け抜ける。
 当たり前だが、もともと公園内部は車が走るようには出来ていないので、歩道や段差をのりこえ、ベンチなどの障害物を避けつつ、リースさんの指示の元、公園内の奥にある広場を目指す。
 広場の周りは木々に囲まれていて、季節柄、青々とはしていない芝生に覆われていた。
 その芝生の上には、黒い塗料で直径が数十メートルの魔法陣が描かれていた。
 魔法陣、といっても洋風のものではなく、漢字や達筆すぎて読めない字で埋め尽くされた和風の円陣だ。
 広場に入ったところで、止まれ、という合図を出す黒いスーツ姿の男性が一人。
 優羅はその前ギリギリに軽々と横付けするように車を止める。
 とてもじゃないけど無免許とは思えない。
「柳川さん。途中で少し拡散していたみたいだけど、そっちのほうは大丈夫なの?」
 リースさんが車の屋根からひらり、と飛び降りると顔見知りなのか柳川と呼ばれた男に質問を浴びせる。
「ああ、問題ない。すでにこちらで追尾及び対処は完了している……と、来たようだな」
 そう、低い声で答えた柳川さんは、がっちりと横幅の広い肉体を無理矢理スーツに押し込んだ三十代後半の男性で、こう言っては何だが、凶悪な面構えもあいまって、完全にその筋の人に見える。
 柳川さんはわたしたちに車から降りるように身振りで促した。
 それに従ってわたしと優羅は素直に車から降りる。もちろんわたしは鈴華が入ったバックを肩から下げたままだ。
 ぎゅ、と服が引っ張られる感触。
 見れば、優羅がわたしの服の裾を掴んでいた。
「……どうしたの?」
 わたしが小声で尋ねると、優羅は青ざめた顔で、
「せ、先輩は本当に何にも感じないんですね……囲まれてます」
 囲まれてるって?、と聞き返するより、周りの動きが速かった。
 広場の周りの木々から、滲み出るように狗達がいっせいに広場全体を包み込むように現われる。あはは、確かに、追い詰めた獲物を逃がすまいといった意志の感じられる包囲網だ。
「……柳川だ。発動しろ」
 柳川さんが手に持ったごつい通信機で、どこかにそう命じるのを合図にしたように、狗達が牙を剥き出して一斉に襲い掛かって来る。
 次の瞬間、魔法陣が背後で赤く発光した。
 ……そして、それだけだった。特に何かが起こる様子は無い。
 狗たちは光を発した魔法陣を警戒するように、一瞬だけ足を止めたが何も起こらないことを悟ると、再び一斉にこちらに向けて迫って来る。
 え? もしかしてこれってまずいんじゃ――と思ってリースさんや柳川さんを見たが、二人の様子はまったく落ち着いたものだった。
 と、いうことは。
 再び狗達に視線を戻す。もう狗達は目の前に迫っている。
 そして、そのまま狗達は、わたしたちに向けて走り寄り――そのまま通り抜けた。
 わたしたちを綺麗に避けて、全ての黒い狗たちは魔法陣の中心にむけて突進していく。
「お見事。相変わらず見事な陣ね」
 リースさんがポン、と柳川さんの肩を叩いてそう言った。
 陣の中心に集まった――いや強制的に集められた狗たちは重なり合うようにしてひしめき合っている。
 次々と中心部に集まっていく狗達は、狗と狗とが交じり合い、どんどんと黒いただの塊になっていく。時折その塊から狗の頭や尻尾が生えては消えてを繰り返している。あまり心地良いとはいえない光景だ。
「え、鈴華さんまずいって何がまずい――」
 それを眺めていると、優羅が突然声を上げる。
 すごい、嫌な予感がするんですけど。
「ちょっと、なんか一部動いてるみたいだけど」
 リースさんがひきつった声で陣内部を指差す。
 たしかに、中心部の黒い塊から分離した三分の一くらいの塊がずるずる、と這う様にしてゆっくりこちらに向かって来ている。
「……状況を報告しろ。やはり術者が三人しか確保できなかったのが原因。予想より強力なようだ」
『……こちら大塚、維持のため動けませんどうぞ』
『こちら山辺、全力でやってます!』
『同じく箕浦、許容限界です』
「ちょっと、なんで三人しかいないのよ!? 少なすぎるじゃない!」
「時間がなかったんだ、仕方ないだろう。これでも掻き集めたんだぞ? ……応援の現着まであと三十分はかかる。あとは封鎖チームで各個処理するしかあるまい」
 文句をつけるリースさんに淡々と柳川さんは説明する。
「さて、お嬢さんたち。あれはまだ君たちにご執心らしい。それでだね、ここは我々が食い止めるので、その間に君たちはここから逃げるのをお勧めする。なあに、十五分もすれば事態は収拾するので、その間頑張って逃げてくれると嬉しい。大宮、護衛よろしく頼むぞ」
「言われなくでもやるに決まってるでしょ」
 柳川さんはわたしたちに振り返ると、口調は丁寧だが実に無茶苦茶なことを言った。
「それじゃ、さっさとこの場から――」
 リースさんがそう言った時、黒い塊が何の前触れも無く跳んだ。
 跳躍の目標はもちろんわたし達だ。
「――散」
 こちらに襲い掛かってくる黒い塊を阻んだのは、柳川さんが投げた一枚の符だった。
 バヂッという音を立てて、符が弾けると黒い塊を数メートルほど吹き飛ばした。
「早く行け」
「行きましょう。運転は今度は私が――」
 ボコ。何かが泡立つような音がした。視線を移す。
 弾き飛ばされた黒い塊の表面がボコボコと泡だっていた。
 そして、不吉な泡立ちをする黒い塊の表面から、数十匹の狗が一気に溢れ出す!
「この、往生際が悪いっ!」
 リースさんはわたしたちを庇うように狗達に立ち塞がる。
 その全身に狗達がたかるように殺到し、リースさんが地面に引きずり倒される。
「リースさん!」
「いいから、行きなさい。車に乗って、早く!」
 全身に喰らいつかれながらも、念動力で反撃し、狗たちを蹴散らすリースさん。
 だが、いかんせん数が多い。柳川さんのほうにも狗達は向かい、こちらをサポートする余裕はなさそうだ。
「優羅、行くよ」
 わたしは優羅の手を取ると、車のほうに押し出すようにして歩かせる。
「でも、リースさんが――」
「私のことならご心配なく――させるか!」
 わたしたちに襲い掛かろうとした、一匹の狗を空中で吹っ飛ばしつつ、リースさんは明るく答える。
 わたしたちを助けたことにより、さらにリースさんは黒い狗達に覆い尽くされていく。
 優羅は一瞬だけ逡巡した様子を見せたが、ドアのない助手席から運転席に滑り込む。
 続いてわたしも助手席にバッグを抱えて乗り込む。
 優羅は刺したままにしてあったキーを捻り、エンジンをかけ、素早くクラッチを切り替え、アクセルを踏む。
 タイヤが勢いよく回転して、車はその場から急発進した。

 こうして、本日最後の逃走劇が始まった。