3話 古本は紙魚の骨を食べるか -3-

いつものことといえば、まあ何時ものことなのだが。
 また厄介なことになったなあ、というのがわたしの正直な感想だ。わたしはとりあえず職員室にむかって歩きながら、鈴華の話を思い出す。

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「いいですか空音、今日は結界についてのお話です。ではまず定義から行きましょう。結界というのはそもそも何でしょうか?」
 鈴華はたまにわたしに、こうまあ呪術的なというか霊的なというかようするにオカルト系の知識を講義してくれることがある。
今日は結界についてらしい。読書中――ちなみにタイトルは『伊集院大介の新冒険』――だったんだけどな。
「光子力研究所のバリアー」
「……真面目にやって下さい。割れてどうするんですか、割れて」
 わたしのウィットに富んだ答えがお気に召さなかったらしい。
割れるところは特に問題じゃないような気がするけど。
「いいですか、要するに結界というのはおおざっぱに言うならば、『何かによって区切られた空間』といえます」
「何か……って例えば?」
「魔力でも霊力でも光子力でもムートロンエネルギーでも呼び方はなんでも良いですが……なんらかのエネルギーや、それこそただの雰囲気だけのものまで様々です。まあ発生源はともかく、理解しておくべきは結界の効果と破り方でしょうね……いいですか、もっともポピュラーな結界の例としては『精神にはたらきかけて区切った』結界です。いわゆる人払いの結界ですね。『なんとなくその空間に行きたくなくなる』というものです。なぜこれが最も一般的かというと、これが一番技術的に簡単だからです」
 ララァァァイ……ツッコム気も起きなかったので口にはしなかった。わたしは超者のほうしか見たことないし。代わりに疑問に思ったことを質問する。
「……そんな簡単なの?結構たいへんなものに思えるけど」
 チッチッチと鈴華は口で言う。いつものことだが、芝居がかった付喪神だ。
「『なんとなく行きたくなくなる』だけですからね。確固たる目的があってそこに行く人には効果ありませんし。それに精神に働きかけるというのは物理的にどうこうというよりは遥かに魔力との親和性が高いんです。空音のような外法者――失礼、特殊能力者にしてもそうです。物理的に影響を及ぼせるという能力者はほとんどいないでしょう。もちろんいないわけではありませんが――私の経験からしても、そのような能力者はどこか歪んでいましたし。多分、人の身には重過ぎるのでしょうね」
 鈴華は昔を思い出しているのかどこか寂しげな声でそう言った。
「話が逸れました。まあ定義についてはこのくらいで。次に行きましょう。次は目的についてですが、人為的に結界を作る目的はおおまかに分けて3つです。外からの影響を防ぐ結界。内からの影響を防ぐ結界。そして結界内の場を変化させることが目的の結界。なんにせよ、結界内は通常とは違う空間であるということを頭に刻み付けておいて下さい。いいですか空音。結界内はすなわち相手の陣地ですからね、すべて相手に利があると思って間違いがありません。相手の陣地で挑もうなどとは死んでも思わないように。ひどいのになると、入った瞬間に生気を吸われるなんてものもありますからね。……もっともこれはかなり難度の高い結界ですが。結界に対しては不用意に踏み込まないのが一番です。それで破り方ですが――基本的には2つしかありません。術者を倒すか、結界を形成している呪物を壊すかです。まあ、術者倒すよりは呪物壊したほうが早いでしょうね……これはこれで大変なんですが」
「ねえ、一番やばい結界ってどんなの?入った瞬間死んじゃうとかそういうの?」
わたしは鈴華の長広舌を遮ってそう質問する。まあその大事な話というのは分かったが、なんとなくわかっていたことだし、聞いているほうとしては退屈だ。
「……そうですね、結界にもいろいろありますが―――やはり罠系の結界でしょうね。空音が一番気をつけるべきは。一度入ったら出られないものが多いですから。じわじわといたぶって殺されます。最悪です」
「出られないって……物理的に出られないわけ?」
 そんなのは難しいのではなかったのか。
「そんなのは滅多にないですよ。あってもものすごく条件が厳しいはずです。物理的に、というのは本当に難しいんですから。意識に働きかけて出られないようにするか、まだ空間を歪めてしまったほうが楽でしょうねえ」
「空間を歪めるってのも物理的なんじゃないの?」
「物質的に壁を作る、というのと空間を歪めて延々ループさせるというのではループのほうが楽なのですよ。……どっちにしたところで出られないことには変わりはありませんが、破りやすいのは空間を歪めているほうです」
「そんなのにあったら、わたしどうすればいいわけ?霊力とか魔力とか0なんだけど」
「……がんばって術者を倒すか呪物を破壊してください。結界内にどちらともいますから」
「……アドバイスになってないような気がするんだけど……だいたい見分けられないよ呪物とか」
「和真様なら多分一目でお分かりになるのですけどね……うーん要は周りの風景と異質なものなのですが……複数ある場合がほとんどですし……まあ罠にかかった時点でそれなりの覚悟をするべきです。僥倖なのは、内から外へ出るのを妨げる結界は、他の効果がほとんどない――それに特化しているという点ですね。外には出られませんが中の行動に制限は受けないはずです」
「……とりあえず頑張れってことはよく分かったわ」
 わたしはそう言って話を打ち切ると、読書に戻った。


                        ◆

 思い出さなきゃ良かった……
 えーっと、かなりのっぴきならない状況にあるように思えるのですが。
 おもいっきり物理的に出られないですよ?
「大体どこのだれがこんなもん作ってるのよ……」
 多分あの声の主なのだろうな、とは思う。さっきのカウントダウンの不吉な声が頭にこびりついている。まるでかくれんぼをする時みたいな数え方――。
……まさかね。
「――イヤァァァァァ!」
 さらに思考を進めようとした時、遠くからつんざくような悲鳴が聞こえてきた。
聞こえてきた方向は――ああやっぱり、図書館のほうか!
「いやな予想って当たるもんよね……」
 わたしはきびすを返すと、図書館の方向に走り出した。周囲を警戒して走りながらも思考する。このまま無策に突っ込んでいっていいものかと。
 悲鳴がおびきよせるための罠でないとは言い切れないからだ。
 しかし放置するわけにもいかず――図書館の入り口が見える廊下の角を曲がり、廊下を息を切らせて走ってきた人影と、あやうく衝突しそうになった。
思わず後ろにとびすさるわたし。鞄に手を突っ込み――ん?
「あなた――」
「―――あ」
 荒い息でその場にへたりこんでいたのは、今日図書室でもぶつかった。『窓際の君』だった。
「ねえ、ちょっと聞きたい――」
「逃げて下さい!」
 バッと弾けるように立ち上がった小柄な彼女は、わたしの制服を掴むとはげしく揺すりつつそう叫んだ。
「……何から?」
 わたしは冷静にそう聞き返す。
「―――あれからです!」
 彼女は廊下の一番奥――図書館の入り口付近を震えた指でさし示す。
わたしもつられてそちらを見る。心の準備は一応していたのだが――。
 それでも多少衝撃を受けた。
 遠目でもわかるほどに青白い肌。地面に平行に存在する筋肉質の胴体から伸びる長細い4本のいびつな手足。四つんばいになって図書室の入り口から廊下に半身をあらわしているその生物は、色素の失われたざんばらな頭髪をもつ頭部をこちらにぎゅるり、と異様な音がなりそうな角度でこちらに向ける。
 顔には人間と同じパーツしかなかったといえばなかったが。目の代わりに深遠でも覗いたように真っ暗な穴が二つ。凶悪そうに横に大きな口からは異様に鋭く白い牙が上下に生え揃っている。鼻がなんの特徴もないのが、逆に不気味だった。
―――フォアアファアァァァ!
 こちらに顔をむけたそいつは、口を大きく開き、掠れた声で咆哮する。
 わたしはその声を聞いて、ようやく事態を悟った。
「――逃げるよ。行こう。思った以上にやばいみたいだから」
 目の前の彼女の手を取る。震えていた。励ますように手を握り返す。
 走り出そうとした時、廊下の向こうからジャカ、ジャカ、と音をさせて四つんばいのままこちらへ近づいてくる異形の影が見える。速度は人間とそう変わりはないが――この薄気味悪い音は手足から伸びる鋭い爪と、廊下のリノリウムがこすれ合う音だ。その音はだんだんとテンポ――すなわち速度を上げて――こちらに迫って来る!
「やばっ!」
 このままだと追いつかれる!
 とりあえず階段を目指して駆ける。幸い階段はすぐそこだ。なんとかして距離を取らないと――ブオッっという空気を裂く音とともに、そいつは長い手足を折りたたんで大きくこちらに跳躍し、一気に距離を詰めると、曲がり角をかろうじて曲がったわたしたちをかすめるように爪を繰り出す。形容しがたい音とともに、壁に爪痕がくっきり刻まれる。しゃ、しゃれになってない!
 わたしと彼女は全力で階段を駆け上がる。踊り場で振り向くと、階段下にはこちらにむけて跳躍しようと体をしならせている奴の姿が―――まずい!
 ――と、突然奴の動きが止まる。首をもと来たほう――図書館の方向に向けると、そちらの方向に全力で駆け出していった。
―――助かった……のかな?
 思わず体から力が抜ける。
 隣を見ると彼女も気が抜けたのか、くたり、とそのばに膝をついている。
「大丈夫?」
「……はい」
 わたしが小声で尋ねると、彼女も力なくそう答えた。
 しかし、まだ何も解決していない。そういえばなんであいつはさっき――
「うわぁぁぁぁああぁぁ!な、なんだお前ぇ」
 瞬間。図書館の方向から悲鳴が聞こえてきた。―――そういうことか。
人気のない校舎には、あまり大きくない悲鳴でも実によく響く。
「やめろっ、やめっ――」
 悲鳴はそこで途切れる。
「立てる?行きましょう」
 わたしはスカートの埃を払うと、彼女にそう促がす。
―――覚悟は決まった。
「――え?」
「いいから立ちなさい。とりあえずここにいるのはまずいから」
「――でもさっきの悲鳴」
「多分、もう無駄だと思う」
 わたしがそう言い捨てると、彼女は絶句する。
わたしと違って優しい娘だ。わたしが冷めているだけなのだけど。まあしかし事態は思った以上にやばいみたいなのだ。あいつの目的がとにかく危険だ。
 なぜそんなのがわかるのかって?
 ――さて、ここで質問です。みなさんはわたしの能力は覚えてらっしゃるだろうか?
 答えは、『意志のあるモノ全てとの会話』である。つまりわたしは先ほどの奴の声もちゃんと翻訳できる――できてしまっていた。はっきりとした言語形態をもたない動物などでもわたしの能力はしっかりとだいたいの意味を訳してくれる。
そして、奴はこう叫んでいた。


『――――喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい』