4話 ハイウェイの澱 -5-


そこで、イエスが、「名は何と言うのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。(マルコ:5:9)


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 犬、と言ってももちろん、通常の犬では有り得なかった。
 まあ、高速道路を走る車に追走できる、という時点で普通の犬なわけはないじゃん、という意見はある。
 その高速走行の部分を差し引いても、非常に違和感のある犬だった。
 表面は黒一色。光さえ塗りつぶすような深い深い黒。毛のようなものは一切見当たらない。しかし、表面は波打つように脈動していて、ひどく不気味だった。
 そして、頭部が異様に大きい。首から上が当社比1.5倍もかくや、とばかりの大きさなのだ。
 加えて、頭全体の大きさだけではなく、一つ一つのパーツも大きかった。
 ギラギラと蒼に輝く瞳。異様に大きな口蓋。そして鋭く伸びた牙。
 四肢は目で追えないほどの速度で高速道路の路面を蹴っている。
「……噛まれたら物凄く痛そう」
 というのが、その犬を見たわたしの率直な感想だった。
「……いつも思うんですけど、先輩は心底余裕ありますよね」
 優羅はそんなことを言うが、わたしはこれでもボケた発言をして場の雰囲気と自分を和ませようとしているだけで、余裕があるわけじゃない……と思う。
 要は馴れだという話はなくもない。
 これはもう、わたしという人間そのものの特徴というか、性質なのでもう直しようがないだろう。
 で、その元気な犬さんだが、現在は車のすぐうしろに―――ガヂ。
 と、思ったら距離を詰めたそいつは、後部のボディにその大口で勢いよく喰らいついた。
 そのままガヂガチガヂと後ろのトランク部分に牙を突き立てて、齧りはじめている。
 金属製のボディに見事に牙が食い込んで――ってそんなのんびり観察してる場合じゃない!
「空音、ちょっと体を左に」
 どうしたもんか、と思っていると前からリースさんの声。
 声に従って反射的に体を少しずらす。
 次の瞬間、すぐ横を『何か』が通り過ぎるのを感じた。
 わたしの真横を通り抜けた『何か』は、そのまま黒犬の顔を思い切り殴り飛ばした。
 鼻っ面を思いっきり超常の力で殴られた黒犬は、そのまま路面に叩きつけられ、2、3回跳ねたあと、動かなくなる――かと思いきや、まるでダメージがないかのようにすぐさま態勢を立て直したのが、後方に見て取れた。
「やっぱり、ガラス越しだと気を使うわね」
 リースさんは――紅く目を輝かせ、念動力で黒犬を殴り飛ばしたハーフ・ヴァンパイアは、つまらなそうにそう言った。
『しかし、空音にも見えているということは、他の方々にも見えているということになりますね』
 鈴華の声はいつもの調子とは随分違ってひどく真剣だった。
 気合入ってるのかな、と密かに思う。
「一応警察には話は通ってるとは思うし最悪の場合は高速道路一時区間閉鎖なりなんなりするでしょうけどね。くそ、やっぱり繋がらなくなってるわね……」
 リースさんは再び対魔機関に繋ごうと電話を片手でいじくっていたが、どうやら圏外らしく断念して携帯を置いた。
 わたしも和真に繋がらないかと再びやってみたが見事に『圏外』の表示だった。
 アンテナが偶然立ってないだけ、とも考えられるが、昨今の日本、たいていの開けた場所は通信圏内だ。
 つまり、これは外部要因による電波妨害ということになる。
 そう、オカルト現象お気まりの、機械類がおかしくなるというやつである。
 事態がますます非現実じみてきたな、と嘆息した時、『ピリリリリ、ピリリリリ』という電子音が車内に鳴り響いた。
 その音を聞いて、あ、そういえば、と思い当たったわたしは、不審げな二人の視線を尻目に鈴華の入ったバックを探り、プラスチック製のケースを取り出す。
 蓋を開けて、中から着信を告げる衛星携帯を取り出すと、おもむろに通話ボタンを押した。衛星携帯は文字通り衛星を経由して通話する携帯電話のことである。
 そしてもちろん通常の携帯電話よりは繋がりやすい。
 この電話にかかってくる相手は今のところ二人しかいない。そしてこのタイミングで掛かるのはもちろん――
「もしもし」
『繋がったな。話の続きだが、霊圧値が一定になると犬の形をとって霊が実体化し、物理的呪いとして作用しはじめると手元の資料にはある』 
 和真はこちらが出たとわかるとすぐさま説明を始めた。
 少しは気遣いとか、こちらの安否の確認とかしたらどうだとも思ったが、こいつがこういう奴なのは分かりきったことではある。なので、わたしは別段文句を言わなかった。事務的なのはそんなに嫌いではないし。
「あ、ちょっと遅い。もう実体化されました」
『……いいか、そうなると加速度的に事態は進む。そこからは増殖の一途を辿るようだぞ』
 わたしの返事に、少し沈黙した後、和真はさらりとおそろしいこと言った。
「ぞうしょく、って増えるの増殖だよね」
『レギオン、という名前がついてるところから察してくれ。物理的に作用できるようになるとエネルギーを取り込みやすくなるとか書いてあるぞ、これには』
 レギオン。聖書でイエス・キリストに追い払われた悪霊の名前だ。レギオンの由来は――多勢、大勢。
「で、和真君、倒し方はどうなってるのかな? そこまで説明してくださるんならもちろんその資料とやらに書いてあるんだよね? 今欲しいのはそれだけなんだけど」
 わたしはわざと明るい調子で訊ねる。
『そんなものが書いてあるなら、俺が真っ先に伝えてるとは思わんか」
「すごく思う」
 わたしは率直に答えた。そんなことじゃないかなーと思ってはいたし。
『……ともかくだ、この電話もいつまで使えるかわからん。とはいっても現時点で他に役立てそうなことはない。鈴華さんあたりが専門だろうから、そっちでなんとかしてくれ。応援だけはしておく』
「……そりゃどうも。ところで毎回思うんだけど、その資料とかどうやって入手してるわけ?」
 とりあえず伝達事項は終了したと見たので、雑談に入ることにする。
『そんなもの教えられるか、と言いたい所だが、これは正規のルートのようなもんだ。東京支部からの経由だからな』
「節操のない情報ルートの提示ありがとう。ところで、神戸にいつごろ着くの?」
『乗る予定だった新幹線を乗り過ごしたからな。多分――ザ―』
「んや?」
 突然のノイズに慌てて電話から耳を離す。どうやらこれにも影響が出たらしい。
 窓の外を見ると、高速で疾走している犬にどうやら注目が集まっているようだ。
 追い越していく車の窓に驚愕や好奇の視線が見て取れる。
「というわけで、鈴華。なにか思いついたことがあったら言って」
『……先ほどから探っていますが、どうにも本体の位置が分かりません。だいたい私は攻撃は不得手です。せめてあらかじめ結界をはっておきませんと』
 夕方とはいえ交通量はそう少ない、というほどでもない。どうにも嫌な予感が頭をよぎる。
 レギオンの能力が増殖と言うのなら――
「くそ、しつこく喰らいついてくるわね。結構出してるのに」
 リースさんが未だ追走してくる黒犬を見ながら毒づく。
 確かに、さきほどから景色がぎゅんぎゅんと後方に流れていっている。
「まあいいわ、もうすぐ降り口――」
 と、リースさんが口にしたところで、優羅が突然叫んだ。
「リースさん、左、左のトラック!」
 即座に視線を左前方に移すと左前方のトラックが車線を踏み越えてこちらに接近してきていた。
 誤ってこちらに踏み込んできたとは到底思えない、思い切った挙動でこちらに突っ込んでくる!
「くそっ!」
 リースさんは慌ててハンドルを切る。が、ギリギリで避け損ね、車体の一部が接触する。
 衝撃が車内を襲った。わたしは咄嗟に鈴華を抱いて丸くなる。
 左前ドアに当てられ、スピンしそうだった車体を器用なハンドル捌きで建て直し、リースさんは再びアクセルを踏む。こちらと接触したトラックは、そのまま斜めに分離帯に突っ込んで停止したようだ。
「優羅、大丈夫?」
 助手席に座っていた優羅に声をかける。
「大丈夫ですけど、なんかドアから物凄い音がしました……」
 幸い、怪我は無い様だ。
『空音、お望みどおり増えましたよ』
 え、と思って後ろを見ると、乗っ取られた乗用車(いちばん始めのやつだ)がトラックの横を通り過ぎると、トラックから黒い犬がもう1頭、滲み出るように出現した。
「はは、ああやって増えるんだ」
 流石に全くシャレにならなくなってきたような気がする。
「それだけじゃないわ。鈴華、あなた気づかなかったの?」
 リースさんが戦慄すら滲ませた表情でそう言う。
『それなりの知能はあるようですね。気配を隠していました』
「……何の話?」
 おそるおそる聞くと、
『囲まれました』
「さっきのトラックみたいなのが回りにずらり、よ」
 言われて周りを見ると、あきらかに車間距離がおかしい車が前に1台。後ろに1台、左にも1台。
 そして、タイミングを計ったように、一斉にこちらに向けて距離を詰めて来た。
「シートベルトはしてるわね」
 リースさんは確認するようにポツリと呟くと、ハンドルを思いっきり切った。
 それらの車に体当たりをされる前に、勢いよく車線変更してリースさんは第一波を凌いだ。車内のわたしたちは急な挙動に身が冷えたけど。
「……なりふりかまっていられないようね」
 リースさんは険しい目つきでそう呟くと、わたしに向かってこんなことを言った。
「空音、運転を変わって」
 ……はい?
「そんな、無茶苦茶言わないでくださいよ! できるわけないじゃないですか!」
「高速道路なんて技術はこれっぽっちもいらないわよ?」
「今の状況は無茶苦茶いると思いますけど……それにATならともかくこの車マニュアルでしょう! そんなの無理に決まってます」
「うーん、そんなに難しくないんだけどな。困ったわね、そうするとどうしたものか……」
 難しいに決まってる、とわたしは思う。だいたい運転変わってこの人はどうする気なんだろう。
 その時、優羅がツンツンとリースさんの肩を叩いた。
 リースさんが顔を傾けて、なあに? と聞くと、優羅はおそるおそる、と言った調子でこんなことを言った。
「あの、私、マニュアル車なら運転できますけど」

……はい?